小説
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この本は、崖の上の高原の王国で話されている高原語の文法を、音と文字から文の組み立て、言葉の層まで、ひととおり記述したものです。この「はじめに」では、まず高原語がどこで誰に話されているか、どのような層と歴史をもつか、隣の干潟語とどういう関係にあるかを概観します。そのあとで、この本の表記と例文の読み方を説明します。
高原語は、干潟の北にそびえる崖「縁」の上に広がる高原の王国の言葉です。王国の人々は、自分たちの国をふだん análor「上手の国」と呼び、正式には anaurím「上手の高み」、詩では amfóndar「上手の源」と呼びます。
言葉の名前も、国の名前と同じく三つの段があります。
| 名 | 字義 | 使う場面 |
|---|---|---|
| amvirá | 上手の言葉 | ふだんの呼び名。都でも森でも崖道でも通じる中立の総称で、宮廷語と崖道の言葉の違いを問わず、高原で話される言葉全体を指す |
| þailvirá | 澄んだ言葉 | 都と宮廷での誇りをこめた呼び名。狭くは都の改まった言葉だけを指し、崖道の言葉・森の言葉・取引言葉を含めない。改まった場や書き言葉では、高原語全体の雅称にもなる |
| aurselvá | 昇る息 | 詩・祈りの詞・系譜の唱えの中での古風な呼び名。日常の会話ではまず使わない |
amvirá は、崖の下の干潟語を「泥の言葉」「下の国の言葉」と呼ぶのと対になる名前です。縁の地方では転じて「きちんとした言葉づかい」の意味にもなり、くだけすぎた話し方をたしなめるときに「amvirá で言え」と言います。都の人は、運び人のくだけた話し方を「澄みの言葉が濁った」と評します。
この本で「高原語」と言うときは、amvirá、つまり高原で話される言葉の全体を指します。記述の基準には、王国の標準語である都の言葉(þailvirá)を使い、ほかの層との違いはそのつど注記します。
高原は、南の端の崖「縁」から北へ向かって、段を重ねるように少しずつ高くなっていきます。高原の人々は、土地を東西南北よりもまず高さの帯でとらえます。南から北へ、次の四つの帯が並びます。
| 帯 | ようす | 言葉にかかわる場所 |
|---|---|---|
| 縁の肩 | 崖のすぐ上の、石だらけの台地。住む人は少ない | 今の崖道の町 dulándo「下る所」、旧道の町 funelór |
| 森の帯 | 高原の大部分を占める深い森。峡谷が刻まれる | 森の氏族の谷々(ulvenkeréla「狼の谷」など) |
| 湖盆 | 高原の中ほどの、東西に長い窪地。高原湖が鎖のように並ぶ | 大湖の北岸の王都(湖都)、湖畔の市の町 meulvéinor |
| 北の高み | 岩の峰が続く山地。王家と古い氏族の聖地・納骨所がある | 古い系譜碑 |
北へ行くほど土地が高くなるので、高原の言葉では「北」と「上」、「南」と「下」がほとんど同じ意味になります。方角は上手(北)・下手(南)・日の出側(東)・日の入り側(西)の四つで言い、これが前置詞 an・du・or・vel の体系にそのまま表れています(→ 第4章、第10章)。
崖の高さは千メートル前後あり、崖の下には干潟が広がります。高原と干潟を結ぶのは崖道だけで、行き来は乾風期に崖の麓で開かれる縁の市にほぼかぎられます。高原の重い硬木は崖の上の降ろし場から綱で下ろされ、干潟の塩と紫染めの糸は運び人が担いで上げます。縁の市と崖道は、高原語と干潟語が触れ合うほとんど唯一の場所です。
高原語は、王国に住むすべての人の母語です。都の宮廷人と役人、湖盆の町と段々畑の村の人々、森の氏族、縁の肩の番人と運び人が、それぞれの層の高原語を話します。
高原の社会は身分を「段」で数え、話し手と聞き手の段の差が、そのまま言葉づかいに表れます(→ 第8章)。身分の高い人ほど、整った韻律と改まった語彙で話し、日常でも詩句を引きます。
高原語を母語としない話し手もいます。干潟から崖を上って商いをする縁商人と、干潟の潮読みの一部は高原語を話し、縁商人は高原の文字で帳簿をつけます。反対に、高原の側で干潟語を話せるのは、崖道の商人と運び人くらいです。
| 時代 | できごと |
|---|---|
| 古い時代 | 森の氏族と湖畔の都市の言葉。この時代の言葉を古高原語と呼び、古い歌・巫の詞・碑文に残る。数は早くから十進法で数えた |
| 約千五百年前 | 鋳物師の刻印と森の氏族のしるしから、文字が生まれる |
| 約千二百年前 | 冷害と飢饉で、崖を下りて干潟へ移り住む人々が出る(干潟の側で言う「縁の民」)。このとき金属・穀物・木材・建築の語が干潟語に入る(tambóro → taboro、gandéra → gadera) |
| 約千年前 | 系譜碑と巫の詞の写しを通じて、綴りが固まる。以後、発音が変わっても綴りは直されない |
| 約九百〜五百年前 | 古い脱落:強勢のある音節のすぐ後ろで、流音・鼻音一つに続く語末の母音が落ちる(*gandéra → gandér)。同じころ、ü が生まれる |
| 約五百年前 | 写字生が小灯点(ü の印)と鉤(長母音の印)を書き添え始める |
| 約二百年前 | 湖畔の都市から出た王家が高原を統一し、宮廷の言葉(都の言葉)が王国の標準語になる。取引を通じて slúun「千」が干潟語に入る(sëlu) |
| 現在 | 今の脱落:くだけた話し方で、強勢のない語末の母音が屈折語尾でも落ちる(áura → áur)。宮廷語では起こらず、綴りにも書かない |
二つの脱落は、時代も条件も違う別々の変化です。綴りは古い脱落より前の形を残しているので、書かれた形と話される形がずれます(〈gandera〉と書いて gandér と読む)。音の変化そのものは第1章、綴りとの関係は第2章で扱います。
高原語には、場所と身分と場面による、はっきりした層の違いがあります。主なものを挙げます。詳しくは第10章で扱います。
| 層 | 話される所・話す人 | 主な特徴 |
|---|---|---|
| 宮廷語・都の言葉(þailvirá) | 湖都の宮廷と都の人々。王国の標準語 | 古い語末母音の脱落を経た今の語形を基準に、残っている語尾は強勢のない母音も含めてはっきり発音する(崖道で進む「今の脱落」は起こらない。→ 1.9.2、1.10)。双数・六つの法・敬語の補充形をそろえて使う |
| 森の言葉 | 森の帯の氏族 | 古い脱落を免れた形が残る(gandéra, tambóro, slúuna, lími)。重性に入る語が多めである |
| 崖道の言葉 | 縁の肩の町々、運び人、崖道の商人 | 今の脱落がよく起こる(áur, dúl, lís)。双数が衰え、名詞は双数のまま動詞と形容詞を複数で受ける。赤月の数え方と干潟語からの借用語が入っている。干潟語のような高低の抑揚がわずかに残り、都の人はこれを「下りた訛り」と呼ぶ |
| 縁の市の取引言葉 | 崖の麓の市で、高原の人と干潟の人のあいだ | 格の語尾も敬語もほとんど落ち、動詞は命令法の2人称単数と同じむき出しの語幹(語末に置けない子音は削る。→ 1.8.4)に ende「どうぞ」を添えて使う(ván fáron, ende「荷を量ってくれ」)。都の人の耳には「半ば沈んだ言葉」に聞こえる |
| 古高原語 | 碑文と巫の詞 | 今の言葉より古い段階の言葉。古い脱落の前の形がまじる |
このほか、旧道の町 funelór の人々は、くだけた話し方でも動詞の語尾を落とさず(áura・lísa)、町の名前も語末の母音まで読んで funelóra と言います。都の人には、この話し方が「崖道の者なのに、妙に丁寧」に聞こえます。
書き言葉(法典・碑文・年代記)と詩の言葉にも、それぞれの決まりがあります。法典と碑文は当為法を多く使い、詩は語順が自由で、強勢と音節の重さによる韻律に乗せて詠みます(→ 第6章、第10章)。
崖の下の干潟では、高原語とは系統の違う干潟語が話されています。二つの言葉は崖をはさんで長く接してきたので、互いに語を貸し借りしてきました。高原語には、干潟語から塩や染料の品質を表す語、潮の語彙が入っています。こうした借用語は重性の名詞になり、文字で書くときは下に泥の線を引きます。また、干潟の数え方の「千」(1728)は、借用語の sélu「泥の千」で言い表し、高原の slúun「千」(1000)と言い分けます。詳しくは第9章で扱います。
高原語は独自の文字で書きます。高原の人はこの文字を virá lísen「書かれた言葉」と呼びます。詳しくは第2章で扱います。
高原語は**動詞で文を始める(VSO)**言語で、融合型の屈折語です。名詞は数と格によって、動詞は主語の人称・数(3人称単数では主語の性も)と法によって形を変えます。一つの語尾が、いくつもの文法的な意味をまとめて表します。日本語の「が・を・に」のように一つずつ付け足すのではなく、英語の he と him のような形の変わり方です。文法の全体には、次の三つの特徴が通っています。
名詞は単数・双数・複数の三つの数と、主格・対格・属格・与格(古くは呼格も)の格で変化します。前置詞を使い、形容詞・属格・分詞・関係節は名詞の後ろに置きます。主語の人称と数は動詞の語尾でわかるので、主語の代名詞はふつう言いません。時間は川の流れとして、前を上手、後を下手と言い表し、比べるときも「〜より上」「〜より下」と言います。このように、高原語の文法の多くの部分には縦の軸が通っています。ただし、すべてが高さで説明できるわけではありません。由来の見えなくなった形や、高さの見方では説明のつかない性の割り当て、理念と食い違う慣用もあります(→ 3.2.2)。
この本では、高原語をラテン文字で転写して示します。ほとんどの字は見たとおりに読みますが、次の字に注意してください。
| 転写 | 音 | 説明 |
|---|---|---|
| þ | /θ/ | 英語 think の th(þrén「段」、dulíþ-「下ろす」) |
| š | /ʃ/ | シャ行の子音 |
| ñ | /ɲ/ | ニャ行の子音(viríña「小句」) |
| ü | /y/ | 唇を丸めた i(dǘn「丘々」) |
| ng・nk | [ŋg]・[ŋk] | n と g・k が並んだもの。ng は独立した音素ではない |
固有名も含めて、すべて小文字で書きます(selméir, sélvanan, ráimar)。高原の文字には大文字と小文字の区別がなく、敬意は大文字ではなく上げ書きで表すからです。
| 記号 | 使い方 | 例 |
|---|---|---|
太字・code |
本文中の高原語の語形 | lísa「書く」 |
| 〈 〉 | 高原の文字での綴りを、字ごとにラテン文字に移したもの。長母音は字を重ねて、小灯点つきの字は〈u̇〉〈ȯ〉で示す | 〈gandera〉=gandér、〈sluuna〉=slúun、〈du̇ni〉=dǘn |
| * | 記録に残っていない、さかのぼって推定した古い形 | *gandéra、*tambóro |
| - | 語の中の形態素の切れ目。語根を挙げるときは語末にもつける | lís-「書く」、au-「尊敬」 |
| → | 形の変化・派生、またはこの本の参照先 | dúl- → dóul-、→ 第5章 |
例文は枠の中に示します。枠の中は、上から次の順に並びます。
dúlo gandér du dálor
読み:ドゥーロ ガンデール ドゥ ダーロル
| dúl-o | gandér | du | dálor |
| 下る-<(重いものが)> | 硬木<主格> | 下手 | 下の国<対格> |
「硬木が下の国へ下りていく。」
aldána aldár áuren an dúnoi
読み:アルダーナ アルダール アウレン アン ドゥーノイ
| aldán-a | aldár | áur-en | an | dún-oi |
| おわす-<(軽いものが)> | 座<主格> | 昇る-<〜した・〜された> | 上手 | 丘-<与格> |
「高き座は丘の上におわします。」
逐語訳の上の段と下の段は、語ごとに縦にそろっています。語の中のハイフン(-)は形態素の切れ目で、下の段でも同じ位置にハイフンを置きます。
léisa lisár plánan
読み:レーサ リサール プラーナン
| léis-a | lis-ár | plán-an |
| 書く<〜し終えた>-<(軽いものが)> | 書く-<〜する人・主格> | 帳簿-<対格> |
「書記は帳簿を書き終えた。」
éso sáko némei un kórvoi.
読み:エーソ サーコ ネーメイ ウン コルヴォイ。
| és-o | sáko | ném-ei | un | kórv-oi. |
| いる-<(重いものが)> | 塩<主格> | <私>-<与格> | 内に | 倉-<与格> |
「私には倉の中に塩がある。」
ván fáron, ende
読み:ヴァーン ファーロン、エンデ
| ván | fáron, | ende |
| 量る<命令法><あなたが> | 荷<対格> | どうぞ |
「荷を量ってくれ、頼む。」
< > の呼び名のもとになっている略号と、その意味の一覧は、付録C にまとめました。本文の説明でも、形態素の働きを短く示すときに略号を使います(-ACC、PTCP など)。
| 章 | 扱うこと |
|---|---|
| 第1章 音韻 | 子音と母音、音節、強勢、異音、語末の母音の二つの脱落 |
| 第2章 文字と正書法 | 文字の成り立ち、字の一覧、綴りの決まり、数字、上げ書き |
| 第3章 名詞 | 性、数、格、曲用の四つの型、数詞と量の名詞、人名 |
| 第4章 形容詞・代名詞・指示詞・前置詞 | 一致、人称代名詞、指示詞、前置詞と格、名詞句の内部 |
| 第5章 動詞 | 人称、六つの法、完了相、分詞、副動詞、否定、使役、不規則動詞 |
| 第6章 文の組み立て | 語順、述語、存在と所有、否定と疑問、命令と依頼、比較、等位 |
| 第7章 従属節 | ré の節、関係節 te、lúin の節、仮定、時の前後 |
| 第8章 敬語 | 尊敬と謙譲の接頭辞、補充形、聞き手との段の差による話し方 |
| 第9章 語形成と借用 | 派生、複合、借用語 |
| 第10章 言葉の層・文体・表現 | 都と崖道、縁の市の取引言葉、書き言葉、定型表現、空間と時、親族名称、詩の韻律 |
| 付録 | 接辞一覧、不規則形一覧、略号一覧 |
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