小説
左の目次から話を選んでください。
寒い、という言葉より先に、歯が鳴った。
かちかちかち、と口の中から音がする。止めようと奥歯を噛みしめると、今度は顎ががくがくと震えだした。頬に当たっている何かが、氷みたいに冷たい。
目を開けた。
岩だった。ざらざらした岩肌が目の前にある。その表面に、白い粉のようなものが薄く張りついていた。霜だ。僕の吐いた息が当たったところだけ、霜が溶けて黒い染みになっている。染みは、息をするたびに少しずつ広がった。
岩の上に倒れていた。
腕をついて体を起こそうとすると、肘から先がしびれていて、うまく力が入らない。指先の感覚がほとんどなかった。手を握ったり開いたりしてみる。爪の色が、見たことのない薄紫になっていた。何度か繰り返すうちに、しびれと寒さのあいだから、鈍い痛みが顔を出し始めた。痛いうちはまだ大丈夫だ。そんな言葉がふと思い浮かんだ。
どうにか座った。
そして、見なければよかったものを見た。
僕が座っている岩の、ほんの一メートル先で、地面がなくなっていた。
崖だった。
岩の縁から先は、何もない。ただ空気だけがある。その空気のずっと下のほうに、白くもやもやしたものが敷きつめられていて、そのさらに向こうに、鈍く光る平たい何かが、どこまでも広がっていた。海か、湖か。高すぎて、距離がわからない。とにかく、ここから落ちたら、何かを考える時間がたっぷりあるくらいには高い。
ひゅっ、と声にならない声が出て、僕は後ろへずり下がった。背中が何かにぶつかる。振り返ると、そこも岩だった。今度は垂直に、上へ伸びている。見上げると、首が痛くなるくらい上まで岩の壁が続いていて、そのてっぺんの線が、白みかけた空をぎざぎざに切り取っていた。
僕は、崖の途中に小さく突き出した、岩棚の上にいたのだ。
正面にも崖があった。
向こうに灰色の岩の壁が、こちらの壁と向かい合って立っている。石を投げても届きそうにないのに、岩のひだや割れ目は一つずつ見分けられるくらいには近い。てっぺんの縁には、ねじれた低い木が何本か、崖の外へ身を乗り出すようにしがみついていた。
二つの壁は、下へ行くほど互いに寄っていって、そのあいだの底は暗くて見えなかった。右手の奥では、二つの壁が一つに寄り合って行き止まりになっている。左手だけが開けていて、壁と壁のあいだの細長い空の下に、さっき見た白いもやと、平たく光るものが見えていた。
巨大な斧で、崖に切れ目を入れたみたいだった。僕はその切れ目の、片側の壁に貼りついている。
◆
落ち着け、と自分に言い聞かせた。こういうときは、わからない問題は飛ばして、わかるところから埋める。テストの定石だ。
ひとつ。僕は浅香 尋、十五歳、中学三年生。それは、間違いない。
ふたつ。ここは崖の途中で、ものすごく寒い。
みっつ。どうしてここにいるのか、まったく覚えていない。
学校の帰りだった。期末テストが終わった日で、駅前の本屋で文庫本を何冊か買った。電車を待つあいだ、ホームのベンチで表紙を眺めていた。夕方のホームは部活帰りの声でうるさくて、自販機の明かりがやけに白かった。それから……電車が来て、立ち上がって。
その先が、ない。
ポケットを探った。スマホがない。財布もない。鞄も、さっき買ったはずの本もない。ブレザーの胸ポケットから、シャーペンが一本と、くしゃくしゃのレシートが出てきた。本屋のレシートだ。それだけだった。
僕はレシートを指先でつまんで、しばらく眺めた。印字された書店の名前と、本を買った日の日付と、二千六百四十円の支払いが克明に残されていた。
今ごろ、母さんは夕飯を作り終えて、遅いね、と言いながら時計を見ているかもしれない。いや、向こうも明け方なのだろうか。一晩、帰らなかったことになるのだろうか。
そこまで考えて、やめた。考えはじめると、何かがそっちに持っていかれてしまう気がした。
風が吹いた。
崖を下から吹き上げてくる風だった。冷たい空気が制服の隙間から入りこんで、体温を根こそぎ持っていく。ブレザーの前をかき合わせて、膝を抱えた。このままじっとしていたら、まずい。そのくらいはわかる。
顔を上げて、もう一度、まわりを見た。
空の片側だけが、うっすらと白んでいる。
月が出ていた。
大きな白い月だ。白みはじめたのとは反対側の低い空に、ほとんど丸い形で沈みかけている。それはいい。明け方に月が残っているのは、べつに珍しいことじゃない。
問題は、その少し下に、もうひとつ月が浮かんでいることだった。
小さくて赤い。こちらもほとんど丸い。熟れた木の実みたいな色の、もうひとつの月。
僕は、たっぷり十秒は、それを眺めていたと思う。
目をこすった。もう一度見た。
月が、ふたつある。
「……マジか」
これは、あれだ。
「来た……」
声が震えた。半分は寒さのせいで、半分はそうじゃなかった。何度も読んだ。何度も想像した。電車の中で、授業中に、寝る前の布団の中で。
念のために、小声で言ってみた。
「……ステータス、オープン」
何も起きなかった。
風の音だけがした。言ってから、耳が熱くなった。誰も聞いていなくてよかった、と思い、それから、誰も聞いていないということの意味に気づいて、熱はすぐに引いた。
◆
とにかく、僕が今いる場所をよく観察してみることにした。
立ち上がると、かたかたと膝が笑った。壁に手をついて、ゆっくりと歩く。
岩棚は、思っていたよりも広かった。奥行きは二メートルくらい、横には十メートル近く続いている。床は平らで、ところどころ、四角く切りそろえたような石が埋まっていた。石と石の継ぎ目には、黒く枯れた苔が詰まっている。自然にできた岩棚じゃない。誰かが、ここを削って平らにしたのだ。
道だ、と気づいた。
崖に刻まれた道。昔はこの棚を伝って、崖を上り下りしていたのかもしれない。棚の右の端は、上へ向かう細い段になっていて、何段か上ったところで、崖ごとごっそり崩れ落ちていた。左の端も同じだった。下へ続く段が、三段目でぷつりと途切れている。段の角は、どれも丸くすり減っていた。何人の足が、ここを踏んだのだろう。
壁のちょうど胸の高さに、緑色に錆びた金属の輪が打ちこまれていた。指で触ると、ざらざらした錆が粉になってはがれた。輪の内側だけが、何かにこすれたようにわずかにすり減って、金属の光沢のある地を見せている。
何かを、ここに結んでいたのだ。綱か、鎖か。荷物を吊るしたのか、人が体を支えたのか。
昔は、ここに人がいた。それだけは確かだった。
◆
喉が渇いていた。
そうして初めて、崖の右手のほうから、さらさらという音が聞こえるのに気がついた。目を凝らすと、棚の右手の、ほんの二、三十メートル先で、細い滝が崖を落ちていた。白い糸を一本、上から垂らしたような、細い滝だ。水しぶきが風に流されて、まわりの岩にあたって凍りついたものが、霜のようになって散らばっている。朝の光が届くと、滝のまわりが、ガラス細工みたいにきらきら光った。
滝は、切れ目のいちばん奥から落ちていた。落ちた水は、二つの壁のあいだの暗がりへ吸いこまれて見えなくなる。あの細い水が、長い長い時間をかけて、この切れ目を削ったのかもしれない。
水はあそこにある。でも、届かない。
ふと崖の壁の方を見ると、上から染み出した水が細いつららになって垂れているところがあった。一本折って、口に入れた。歯にしみるほど冷たい。岩と、鉄の味がした。それでも、喉を通っていく水が、こんなにありがたいと思ったことはなかった。
つららを三本かじったころ、それが来た。
最初は、石が転がる音だと思った。からからから、と小石が崖を落ちていく。音のしたほうを見上げると、僕のいる棚より二十メートルほど上の崖に、白っぽいものが張りついていた。
ヤギだった。
正確には、ヤギのような動物、なのだろう。灰色がかった白い生き物が、崖の上を歩いていた。歩いていた、という言い方しかできない。僕には壁にしか見えない崖の、どこにあるのかわからない足場を、ひょい、ひょい、と軽く跳んで渡っていく。ねじれた角が二本、頭の後ろへ大きく反っている。長い毛が、風に吹かれて片側へなびいていた。
それは途中で立ち止まって、こちらを見下ろした。黄色い目に、横長の瞳孔があった。ヤギだった。
しばらく見つめ合った。
「……どうも」
ヤギは鼻を鳴らして、また歩きだした。
その足の運びを目で追った。上へ、斜めに、また上へ。ヤギが踏んだところには、崖の表面がわずかに出っ張っている場所や、浅いくぼみがあるのが、遠目にもかろうじて見えた。
道はあったのだ。少なくとも、ヤギにとっては。
ヤギの通った足場を目でたどると、同じような出っ張りが点々と続いて、それが崖の上まで続いていた。
ヤギの足どりを、何度も頭の中でなぞった。あの出っ張りまで、棚の右端の、崩れた段から手を伸ばせば届くかもしれない。そこから、あのくぼみへ。それから……。
やめておけ、と頭のどこかが言った。待っていても誰も来ない、と別のどこかが言った。
試してみることにした。
崖の端に立って、小さく出っ張って足がかりになりそうなところに足をかけた。体重をかけても、なんともない。次に、ヤギが足場にしていた出っ張りへと手を伸ばした。指先が出っ張りの縁に触れた。冷たい。薄い氷に覆われて、つるりとしている。これは無理だ、と思った。指をかけて踏ん張れるところがない。
あきらめて足をもとの岩棚に戻そうとした瞬間、指をかけていた出っ張りの表面の氷がはがれた。
指がすべって、体が後ろへ傾いた。
心臓が、喉までせり上がった。
ばたばたと腕を振り回して、どうにか壁にしがみついた。頬を岩にこすりつけたまま、息ができなかった。足元で、僕の蹴った小石が崖の外へ落ちていった。音がしない。いつまでたっても、下に着いた音がしない。
岩棚の中心まで這うようにして戻って、壁に背中をつけて座りこんだ。膝ががくがく震えていた。今度は寒さのせいじゃなかった。手のひらを見ると、皮が一枚むけて、うっすら血がにじんでいた。痛みは、ずいぶん遅れてやってきた。
見上げても、ヤギはもう見えなかった。
あのヤギには四本の脚と蹄があって、僕には凍えた手と、すり減ったスニーカーしかない。それだけのことだった。
◆
日が高くなった。
日差しが崖に当たると、少しだけ寒さがやわらいだ。棚のいちばん日当たりのいいところに座った。岩が日を吸って、かすかに温かかった。
ここから出る方法は、ない。上にも下にも行けない。待つしかない。誰かが来るのを。
でも、誰が来る?
この道は崩れていて、たぶんもう何年も、ひょっとしたら何十年も使われていない。来るとしたら、ヤギくらい、とか。
不吉な考えを無理やり振り払うように、助けを呼んでみる。
「おーい!」
声は向こうの壁に当たって、少し遅れて、二度三度と跳ね返ってきた。跳ね返ってきた自分の声は、思っていたよりずっと細かった。
「おーい! 誰か!」
返事はない。滝の音と、風の音だけがあった。
三十回くらい叫んで、喉が痛くなったのでやめた。
腹が鳴った。最後に食べたのは、テストが終わった日の昼、購買で買った焼きそばパンだった。半分残して、鞄に入れたままにしたのを思い出した。あの鞄は、どこへ行ったのだろう。
異世界ものの主人公たちは、こういうとき、どうしていたっけ。だいたい、すぐに誰かに拾われていた。森の中で魔物に襲われているところを、通りがかりの冒険者に助けられたり、王都の近くの草原に落ちて、親切な農家の娘に見つけてもらったり。
崖の途中に落ちた主人公の話は、読んだことがない。なぜ読んだことがないのだろうか?
そう思ったら、なぜか笑えてきた。ひとりで、声を出して笑った。笑い声も崖に跳ね返って、何人もの僕が笑っているみたいに聞こえた。それで、すぐにやめた。
◆
日が傾くと、時間がのろくなった。
やることがなかった。滝のまわりで氷がきしむ音を聞いた。影の先が石の継ぎ目を一つ越えるのを、ずっと見ていた。指で、霜の上に自分の名前を書いた。書いた先から、指の熱で字がにじんだ。
それにも飽きると、家のことを考えた。
帰ったら、弁当箱を出さないといけない。いつも、僕は鞄を置いてそのまま二階へ上がる。しばらくすると、下から母さんに呼ばれる。弁当箱、とだけ言われて、また階段を下りる。
喉の奥が、きゅっと詰まった。
僕は膝に額を押しつけて、それが過ぎるのを待った。泣いたら、そのぶん体の水が減る。今は、そういう計算のほうを信じることにした。
◆
その声がしたのは、日がだいぶ傾いて、崖の影が棚の半分を覆ったころだった。
「hóu!」
ぎょっとして顔を上げた。
崖のてっぺんに近いところに、人がいた。
男だ。毛皮らしいものを着こんで、頭にも毛皮の帽子をかぶっている。背中に弓を背負っていた。腰には、何か獣の脚のようなものが、紐でくくって下げてある。崖の縁に片膝をついて、こちらを見下ろしている。
「hóu! té!」
張りのある、よく通る声だった。聞いたことのない言葉だ。英語の響きではなかった。もちろん日本語でもない。ただ、呼びかけられているのはわかった。
人だ。
人がいる。
僕は立ち上がって、両手を振った。振りすぎて、足もとがよろけた。
「おーい! ここ! ここです! 助けて!」
男は、僕の声を聞いて、少し首をかしげた。それから、もう一度、さっきより強く呼びかけてきた。
「pá éses!?」
問いかけの調子だった。語尾が少しだけ上がっている。何かをたずねられている。たぶん、「お前は誰だ」とか、「何をしている」とか、そういうことだ。
「わからない! 言葉、わからない! ヘルプ! ヘルプ・ミー!」
英語なら通じるかもしれない。そう思ったが、男の顔には何も浮かばなかった。ただ、じっと僕を見下ろしている。眉のあいだに、深い皺が一本、刻まれていた。怒っているのか、困っているのか、それとも、ああいう顔なのか。
それから男は、僕の足元の岩棚を、端から端まで眺めた。崩れた段を見て、壁に打ちこまれた錆びた輪を見た。そこで、男の目が止まった。
長いこと、男は輪を見ていた。僕のことなど忘れたみたいだった。口が、何か言いかけるように少し開いて、また閉じた。
やがて男は、こちらに向かって、手のひらを突き出した。押しとどめるような、しっかりと開いた手のひらだった。
「séir!」
その意味は、男の手のひらが教えてくれた。
僕は、何度もうなずいた。
男は手のひらを下ろして、何か短く付け加えた。
「hóinim!」
そして男は、崖の縁から姿を消した。
「……え?」
僕は、男のいた場所を見上げたまま、しばらく動けなかった。
「え、ちょっと、待って。待ってって言ったよね? え?」
崖の縁には、もう誰もいなかった。小石がひとつ、男のいたあたりから転がり落ちてきて、僕の横を通り過ぎていった。
行ってしまった。
◆
夕方になると、寒さは昼の倍になった。
影が棚全体を覆うと、岩が冷えていくのが、背中越しに伝わってきた。昼間かすかに温かかった窪みも、もうただの冷たい石だった。滝のまわりの氷が、ぴしり、ぴしり、と小さな音を立てていた。
僕は、棚のいちばん奥の、壁がくぼんでいるところに体を押しこんだ。膝を抱えて、ブレザーの中に顔をうずめた。僕の息を、少しでも服の中に閉じこめておきたかった。シャツの襟から、自分の匂いがした。家の洗剤の匂いが、まだ少しだけ残っていた。
あの男は、戻ってくるだろうか。
戻ってくる、と自分に言い聞かせた。あの手のひらは、あの言葉は、待て、と言ったのだ。そうでないといけなかった。
でも。あれは、待て、じゃなかったのかもしれない。近寄るな、とか、そこで死ね、とか、何か別の意味だったのかもしれない。最後に付け加えた短い言葉は、何だったのだろう。思い出そうとしても、音の形が崩れて、もう思い出せなかった。
言葉がわからないということは、そういうことだ。僕は、ただ、相手の言いたいことをわかった気になっているだけだ。
気をそらしたくて、頭の中のネタ帳をめくった。異世界に行ったらやることリスト。ふざけ半分に、でもけっこう本気で、何年もかけて考えてきた一覧だ。
マヨネーズ。卵と油と酢。この世界に、ニワトリはいるだろうか。
リバーシ。この世界の人は、もう似たような遊びを持っているかもしれない。
活版印刷。ゼロの概念。複式簿記。
風が吹いて、身を震わせた拍子に、リストはばらばらになった。どれも、まず町に着いて、言葉が話せて、誰かに話を聞いてもらえて、初めて役に立つものだった。
空に、星が出はじめた。
ひとつ、またひとつ。そのうち、数えきれないほど出た。こんなにたくさんの星を、僕は見たことがなかった。
知っている星座を探した。オリオンも、北斗七星も、カシオペアも、見つからなかった。夏の夜、ベランダで父さんに教わった、たったそれだけの星座が、どこにもない。
月が二つあると知ったときより、そのほうがこたえた。
冷たいものが、腹の底にたまっていった。目を伏せたら、そのまま眠ってしまいそうだった。眠ったら、たぶん、起きない。
だから僕は、名前を知らない星を、ひとつずつ数えた。百を過ぎたところで、数がわからなくなって、また一から数えた。
◆
最初は、星が落ちてきたのかと思った。
崖の上が、ぼうっと赤く光った。光は一つではなく、いくつもあった。揺れながら、崖の縁に沿って集まってくる。
松明だ。
人の声がした。一人じゃない。何人もの声が、聞いたことのない言葉で、短く呼び交わしている。
僕は壁のくぼみから這い出して、崖の上を見上げた。かじかんだ脚が、自分のものじゃないみたいに重かった。
ぎいい、と、木のきしむ長い音がした。
崖の縁から、太い丸太のようなものが、ゆっくりと空中へ押し出されてきた。丸太の先には、木でできた車輪のようなものが取りつけてあって、そこに綱がかけてある。何人もの人が、崖の上でその丸太を支えていた。丸太がきしむたびに、上の人たちが息を合わせて声を出した。松明の火の粉が、風にあおられて、崖の下へ散っていった。
綱がするすると下りてきた。
松明の光の中を、太い綱が、僕のほうへ下りてくる。綱の先には輪っかがあって、その下に板きれが吊ってあった。
綱は、棚のすぐ外で止まった。手を伸ばせば届くところで、ゆらゆらと揺れている。
上から、あの男の声がした。
「kráil fúnel!」
あの男だ。
戻ってきた。
胸の奥で、何かがほどけた。目の奥が熱くなって、松明の光がにじんだ。
男は崖の縁から身を乗り出して、自分の腕を胸の前で回してみせた。輪っかを脇の下に通せ、と言っているのだとわかった。
僕は、棚の縁ににじり寄った。縁の向こうは、真っ暗だった。底が見えない。昼間よりも、ずっと深く見えた。
手を伸ばした。綱の端に、指先が触れた。
つかんだ。
ざらざらした、太い綱だった。何かの植物の繊維をよった綱だ。冷えきっていて、指に鋭く食いこんだ。古い綱らしく、ところどころ毛羽立って、ほつれかけている。それを見なかったことにして、綱を手繰り寄せ、輪っかに頭と腕を通した。脇の下に輪がかかるようにして、板きれに腰を下ろす形になった。
「mé brúum!」
上から、男が鋭く言った。動くな、か、気をつけろ、か。どちらにしても、言われなくても動く気はなかった。
上で、さらに男が叫んだ。
「auríþimor élan!」
大勢の声が、それに応えた。
綱が、ぐん、と引かれた。
体が、宙に浮いた。
足下には何もなかった。綱がゆっくりと回って、崖の壁と、真っ暗な空と、遠くの白い滝と、二つの月が、僕のまわりを順番に回った。
ぎい、ぎい、と丸太がきしむ。そのたびに、体が少しずつ上がっていく。上の人たちが、拍子を合わせて何かを叫んでいた。同じ言葉を、何度も何度も繰り返していた。何十人もの声が一つになって、歌のように聞こえた。
途中で、綱が大きく揺れて、肩が崖の壁にぶつかった。氷が顔をかすめて、頬に冷たい痛みが走った。綱を握る手に、さらに力をこめた。むけた手のひらの皮が、綱に擦れて焼けるように痛んだ。
輪と板が体を支えているはずなのに、手を放したら落ちる気がした。
手を放さなければ、引き上げてくれる。
そのことだけを考えた。
◆
崖の縁を越えたのは、どのくらい経ってからだったのか、わからない。
何本もの手が伸びてきて、僕の腕や肩や襟首をつかんだ。体が地面の上に引きずり上げられた。地面は硬くて、でこぼこしていて、そして、どこまでも続いていた。僕は四つんばいになって、しばらく動けなかった。指を土に食いこませて、地面がそこにあることを確かめた。土と苔と、松明の煙の匂いがした。
まわりを、人が取り囲んでいた。
二十人か、三十人くらい。みんな毛皮や、ごわごわした織物を何枚も重ねて着ている。どの顔も、日に焼けて、風に削られたような顔だった。男もいれば、女もいた。年寄りも、子どももいた。息が、松明の明かりの中で白く立ちのぼっていた。全員が、僕を見ていた。
しばらくして、どこかで、ひそひそと声がした。
「dulána...」
別のところで、また誰かが言った。
「dulána.」
その言葉は、輪になった人たちのあいだを、さざ波みたいに伝わっていった。dulána、dulána。人々が、少しだけ後ずさった。子どもを自分の後ろに引き寄せる母親がいた。一人の老人が、腰の小袋に指先を入れ、その指を自分の額に押しあてた。指先に、白い粉のようなものがついていた。
何か、よくない言葉だ。それだけはわかった。
助けてもらったのだと思っていた。その人たちが、僕から一歩下がっていく。
輪の中から、太った中年の男が一歩前に出た。ほかの人たちより上等そうな、厚い毛織りの外套を着ていて、腹のところで帯がきつそうに食いこんでいた。男は僕を指さして、まわりの人たちに向かって、はっきりと言った。
「tóra dulána.」
何人かがうなずいた。
そのとき、僕の横で、低い声がした。
「na.」
あの男だった。弓を背負った、毛皮の帽子の男。崖の上から僕を見つけた男だ。近くで見ると、思っていたより若かった。三十代の終わりか、四十くらい。無精ひげが顎を覆っていて、目つきが鋭かった。両手の指の節が、綱で擦れたのか、赤く腫れていた。
男は、太った男をにらんで、もう一度言った。
「auríþim élan.」
何と言ったのかは、わからなかった。でも、最初の短い一言は、何かを打ち消す響きだった。違う、と言ったのだと思う。男は自分の胸を親指で叩いて、それから、崖の縁に突き出したままの丸太を指さした。
太った男は、何か言い返そうとした。
そのとき、人垣が割れた。奥から、小柄な老婆が人を押しのけて進み出てきた。背は僕の胸までしかない。白い髪を首の後ろで小さく巻いて留め、灰色の毛織物を肩からかけていた。腰は少し曲がっていたが、歩き方には迷いがなかった。手に、木の椀を持っていた。
老婆は、僕の前にまっすぐ歩いてきて、しゃがみこんだ。膝が鳴る音がした。皺だらけの顔が、松明の明かりに浮かんだ。小さな、黒い目だった。
老婆は椀を差し出した。
「níl.」
椀の中で水が揺れていた。
僕は両手で椀を受け取った。手が震えて、水がこぼれそうになった。椀の縁は何十年も使いこまれたみたいにすべすべしていて、老婆の手の温かさがまだ残っていた。口をつけた。冷たかった。でも、つららをかじったときとは違って、泉から汲んできたような、鋭さのない水だった。
一息に飲み干した。
まだ、足りなかった。
老婆は、椀を差し出しながら、níl と言った。椀の中には、水が入っていた。
だったら、níl は、水のことだ。
僕は、空になった椀を両手で差し出して、言ってみた。
「ニル……?」
老婆の目が、丸くなった。それから、皺だらけの顔が、くしゃっと崩れた。笑ったのだ。前歯が一本、欠けていた。
老婆は、そばにいた誰かから水の袋を受け取って、椀にもう一杯注いだ。そして、椀を僕の手に押しつけながら、もう一度言った。
「níl.」
二杯目も、一息に飲み干した。
通じた。この世界で初めて、僕の言葉が、誰かに届いた。
老婆は、空になった椀を見て、満足そうに小さくうなずいた。それから、僕の顔を、正面からじっと見た。
「pón þéles?」
問いかけだった。でも、何をたずねられているのかはわからない。
僕が困った顔をしていると、老婆は、自分の胸に手を当てて、ゆっくりと言った。
「weréla.」
ウェレラ、と聞き取った。それから老婆は、自分の胸を指さして、もう一度言った。
「weréla.」
そこで、名前をたずねられたのだと思い至った。
僕も、胸に手を当てて言った。
「尋。……ヒロ」
「híro?」
ウェレラさんが繰り返した。まわりの人たちが、小さくざわついた。何人かが、妙な顔をして、目を見交わした。僕の名前の響きに、何か引っかかるところがあるらしい。くすっと笑った若い男が、隣の女に肘でつつかれていた。
何がおかしいのか、さっぱりわからなかった。ヒロ。ただの名前だ。それとも、ここでは何か別の言葉に聞こえるのだろうか。
ウェレラさんは、ざわめきを気にする様子もなく、膝に手をついて、ゆっくり立ち上がった。そして、僕を囲む人たち、太った男、それからあの弓の男の顔を、順番に見回した。
ウェレラさんが口を開いた。小さな体に似合わない、よく通る声だった。
「ésa fúnelos.」
短い一言だった。
でも、その一言で、まわりのざわめきが、ぴたりと止まった。
太った男が、何か言いかけて、口を閉じた。外套の前を、意味もなくかき合わせた。弓の男は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。けれど、その横顔がほんの少しだけほっとしたように見えた。それから男は、ちらりと太った男のほうをうかがった。ほっとしただけではない、何かを量るような目だった。
fúnelos。
その響きを、僕は口の中で転がした。さっき、崖の上から男が叫んだ言葉の中に、似た響きがあった。kráil fúnel。弓の男が、綱を下ろしたあとに僕に叫んだ言葉だ。
綱、だろうか。
綱が、なんだ。
わからなかった。わからなかったけれど、目の前の小さな老婆が、僕のために何かを言ってくれたことだけは、わかった。
◆
人垣が、少しずつほどけていった。
去っていく人たちは、僕の横を通るとき、目を合わせないようにしていた。さっきの老人は、すれ違いざまに、また指先を額に当てていた。
弓の男が、僕の腕をつかんで、乱暴に立たせた。膝が言うことを聞かなくて、よろけた。男は、ちっと舌打ちして、僕の腕を肩に回させた。毛皮の匂いと、汗の匂いと、かすかに血の匂いがした。腰に下げていた獣の脚が、歩くたびに僕の太ももに当たった。
男に半分担がれるようにして、僕は歩きだした。
崖から離れて、暗い道を歩いていく。踏み固められた土の上に、ところどころ凍った水たまりがあって、松明の光を映していた。家がいくつも浮かび上がった。腰の高さまで石を積んだ土台の上に、黒ずんだ木の壁が立ち、急な屋根を薄い黒い石が鱗のように覆っている。屋根の石の上に、薄く雪が積もっていた。どの家も、人の数に比べて、やけに大きく見えた。窓に明かりのない家のほうが、多かった。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
ある家の戸口から、女の子がこちらを見ていた。
僕と同じくらいの歳だろうか。毛皮の頭巾から、黒い髪がこぼれている。大きな目が、松明の明かりを映して光っていた。頬が、寒さで林檎みたいに赤い。怖がっているのではなかった。ただ、ものすごく興味しんしんに、僕を見ていた。
目が合うと、女の子は、ぱっと戸の陰に隠れた。それから、もう一度、そっと顔だけ出した。
そして、小さな声で、たずねるように言った。
「híro?」
さっき、輪の中でウェレラさんが繰り返した、僕の名前だった。さっきの輪の中に、この子もいたのだろうか。それとも、もう誰かが伝えたのか。
この子は、笑わなかった。
僕は、自分の胸を指さして、うなずいた。
「híro.」
女の子は、口の中で、もう一度 híro と転がした。それから、戸の陰に引っこんだ。
僕は、思わず、ちょっとだけ笑った。崖を上がってから、初めてだった。
弓の男が、その家の前で足を止めた。戸口から、温かい光と、何かが煮えている匂いが漏れてきた。獣の脂と、何かの草の匂い。火だ。
男は、僕を戸口へ押しやった。
僕は、敷居をまたぎかけて、振り返った。
空には、白い月と、赤い月が、並んで昇っていた。
左の一覧から語を選ぶか、上の検索欄に日本語またはローマ字を入れてください。
左の目次から課を選んでください。
左の一覧から選んでください。
高原語で書かれた読み物です。左の一覧から選んでください。
左の目次から話を選んでください。
小説・世界設定・翻訳から見つけた「辞書にない語」の候補です(uv run conlang dict-grow 名前 で作られます)。登録する語を選んでください。同義語として複数選べます。