小説
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霧は三日後に晴れた。
南から強い風が吹いてきた。崖の下から這い上がってくる、湿った、生ぬるい風だった。この町に来てから、あたたかい風というものに初めて触れた。風は崖の上の石の原を埋めていた霧をゆっくりと持ち上げていった。霧は地面を離れて、屋根の高さになり、それから空の高いところで、厚い灰色の雲に変わった。
霧が地面を離れたその日のうちに、家じゅうが炉のまわりに集まった。
ウェレラさんが、膝の上に古い布を広げた。フレウレラさんも、セルヴィーニャも、ヒルヴァンも、同じように布を広げた。ウェレラさんは炉の脇の平たい石を取って、指の爪をその上でこすりはじめた。しゃっ、しゃっ、と乾いた音がした。フレウレラさんは小さな青銅の刃物で、爪の先を薄く削いでいた。削いだかけらは、どれも膝の布の上に落ちた。
セルヴィーニャが僕の膝にも布をかけて、石を一つ押しつけてきた。
石にこすりつけると、爪は思ったより早く削れた。ものすごく大きな爪やすりだと思えばいい。白い粉が、布の上にたまっていった。
見ると、ヒルヴァンの指先も、セルヴィーニャの指先も、僕と同じくらい伸びていた。霧のあいだ、この家では誰も爪を切っていなかったのだ。
全員が終わると、ウェレラさんがみんなの布を一枚ずつ集めて、炉の上でそっとはたいた。粉とかけらが火の中へ落ちて、ちりちりと小さな音を立てた。焦げたにおいが、煙と一緒に天井の穴へ昇っていった。
夕方には、町の外れの小屋から、久しぶりに白い煙が上がった。
その雲から、雨が降りはじめた。細い、冷たい雨だった。ただ、霧よりはましだった。少なくとも、昼間は空が見える。
屋根の黒い石を叩く雨の音が、一日じゅう家の中に響いた。軒から落ちる水が、戸口の前の地面に小さな溝を掘った。道のぬかるみは深くなって、スニーカーは乾く暇がなくなった。洗った服も外には干せないので、炉の上に渡した竿に掛けた。乾いた服は、どれも煙のにおいがした。そのうち、僕の体からも同じにおいがするようになった。
ヒルヴァンの縫う毛皮の履き物は、まだ片方しかできていなかった。昼のあいだ、ヒルヴァンは綱場の綱にかかりきりだった。錐を動かせるのは、夜遅く、炉のそばに戻ってからだけだった。それでも、もう片方は、切った皮のままだった。
フレウレラさんは、毎朝、僕の上着の襟を直した。袖を引っぱって伸ばし、裾の泥を手で払った。言葉では何も言わなかった。
雨が降りはじめて二日目の昼、町の外れの見張りの子どもが、走って帰ってきた。
子どもは町じゅうに聞こえる声で、何か叫んだ。家々の戸が開いた。人々が雨の中に出てきた。
ウェレルが僕の顔を見た。何も言わなかった。でも、その顔でわかった。
来たのだ。
◆
男は、二人だった。
前を歩いてくるのは、四十くらいの男だった。中肉中背で背筋がまっすぐで、歩き方に迷いがなかった。ぬかるんだ道を、泥のはねを気にするふうもなく、同じ歩幅で歩いてくる。着ているものが、町の人たちと違った。上着を何枚も重ねている。いちばん外の上着はくすんだ黄色をしていて、その下の襟から、緑がのぞいていた。
この町で色のついた服を着ている人を、僕は見たことがなかった。みんな、灰色か生成りだ。フレウレラさんがセルヴィーニャに渡した上着の、縁に織りこまれた細い黄色い糸が、この町でいちばん明るい色だった。
男の腰には、青銅の札が下がっていた。手のひらくらいの大きさで、何かが刻んである。歩くたびに帯に当たって、小さく音が鳴った。顎の髭は短く刈りそろえられていて、雨の雫がその先に光っていた。
後ろを歩いてくるのは、僕と同じくらいの年の若い男だった。こちらは、背中に木の箱を背負っていた。雨が入らないようにか、上から布をかぶせてある。頬がこけて、指の先が黒く汚れていた。前の男の足跡を、そのまま踏んで歩いていた。
色のついた服。腰の札。後ろに荷物持ちのような若い男を連れている。町の誰とも違う。どこか上のほうから、何かを調べに来た人。役人みたいなものなのかもしれない。ウェレルが言っていた senár というのは、こういう人のことだろうか。
二人は町の真ん中の井戸の前で立ち止まった。町の人たちが遠巻きに集まった。誰も近づかなかった。誰も口をきかなかった。雨の音だけがしていた。
僕はウェレラさんとヒルヴァンの後ろに立っていた。フレウレラさんが僕のすぐ横に来た。灰色の上着の袖を、そっと引っぱって、まっすぐに直した。
黄色い上着の男の目が、こちらへ流れてきた。
何か言わなければ、と思った。黙って立っているより、ずっといい。井戸端で、ウェレラさんに教わった挨拶がある。僕は一歩前に出て、頭を下げた。
「aurénde selvá!」
返事はなかった。
黄色い上着の男は、僕のほうを見もしなかった。聞こえなかったのではない。聞いたうえで、そこに何もなかったように、目を町の人たちのほうへ移した。
後ろの若い男だけが、ちらりと僕を見た。口の端が、かすかに動いた。笑ったのか、困ったのか、わからなかった。
町の人たちのあいだで、小さなざわめきが起きた。フレウレラさんが、僕の袖を後ろへ引いた。僕は頭を上げて、一歩下がった。何か間違えたのだろうか。
黄色い上着の男が、町の人たちを見回した。そして言った。
「pá ésa funelár?」
funelár は知っている言葉だった。
あの碑だ。崖のほうへ上る古い道の入り口に立っている石。セルヴィーニャが funelara と綴って、funelár と読んだ。fúnel に関連する何かだ。
ヒルヴァンが、一歩前に出た。
「ésim.」
funelár は、ヒルヴァンのことらしかった。綱を扱う人、という意味なのだろうか。僕が引き上げられた夜のことを思い出した。あの時、ヒルヴァンは率先して僕を引き上げようとしていた。そして綱を修繕するあの慣れた手つき。ヒルヴァンは綱を扱うことを生業としていたのかもしれない。
黄色い上着の男は、ヒルヴァンを頭から足まで一度だけ見た。それから、ヒルヴァンの肩ごしに僕を見た。
目が合った。けれど、こちらを見ているという感じがしなかった。人を見る目ではなかった。荷を見る目でもなかった。フレウレラさんの、品物を確かめるような目とも違った。何か、帳簿の上の、まだ書きこまれていない一行を見るような目だった。
僕から目を離さないまま、後ろの若い男に向かって言った。
「ké táiso es dáloros?」
語尾が o だ。町の若い男たちが、tóro híro と言って、僕をからかったことがあった。人を o で言うのはよくないことらしい。あのときも、セルヴィーニャが怒って a で言い直した。にもかかわらず、男は僕のことを o で言った。からかう調子ではなかった。それが当たり前だというような、平らな声だった。
dáloros。dáloro に似ている。ウェレルが叫んで、ウェレラさんに叱られて、近所の家が戸を閉めた、あの言葉だ。
口にしてはいけない何かから、o で呼ばれるものが、来たのか。
たぶん、そう聞いたのだ。
「táisa.」
ウェレラさんだった。
小さな体で、黄色い上着の男の前に、ずいと出た。男の顔を下から見上げた。それから、もう一度、はっきりと言った。
「táisa.」
a で、言い直した。若い男たちが tóro híro と言ったとき、セルヴィーニャがやったのと同じだった。
黄色い上着の男は、ウェレラさんを見下ろした。何も言い返さなかった。でも、言い直しもしなかった。
僕の前まで歩いてきて、僕の手を取った。
乾いた、冷たい手だった。手のひらを上に向けさせた。指を一本ずつ、押して、曲げた。手のひらの、皮の厚さを見た。井戸の縄でできた硬い皮のところで、少し指が止まった。親指の腹で、中指の関節の横をこすった。ペンだこのできている場所だった。それから、灰色の上着の、襟と袖を見た。生地を指でこすった。何も言わなかった。
フレウレラさんの肩から、少しだけ力が抜けるのが、横にいてわかった。
男の目が、下へ降りた。
僕の足もとで、止まった。
スニーカーだった。
僕は息を止めた。
ブレザーはいま箱の底だ。でも、スニーカーは毎日履いていた。ヒルヴァンが夜ごとに縫っている毛皮の履き物は、まだ片方しかできていない。この町の人たちの、革を巻きつけたような履き物とは、まるで違う。白いゴムの底。ナイロンの網目。黒いロゴ。泥だらけになって、雨に濡れて、それでも、この世界のどこにもないであろう形をしていた。
男はしゃがみこんだ。僕のスニーカーのつま先を、指で押した。ゴムの底のふちを、爪でつまんだ。それから、僕の足首をつかんで持ち上げた。僕はあわてて、反対の足に体重を移した。彼は靴底を横へ向けて、溝をのぞきこんだ。
長い時間だった。雨が、男の黄色い上着の肩に、黒い染みを広げていくのが見えた。
フレウレラさんの指が、僕の袖の中で、僕の手首を強くつかんでいた。
男は立ち上がった。何も言わなかった。後ろの若い男に、目で合図をした。若い男は背中の箱を下ろして、ふたを開けた。中から、薄い板と、細い筆と、小さな墨の壺を取り出した。板の上に、白い紙が一枚留めてあった。
紙だ。
自分が持ってきたもの以外の紙を、この世界で初めて見た。あの家のどこを探しても、一枚もなかったもの。それが、僕のことを書くために、ここに出てきた。
若い男は箱に板を渡し、その上に墨の壺を置いた。片手でふたを傘のように傾けて雨をよけ、もう片方の手で筆を走らせた。
何を書いたのかは、見えなかった。
◆
それから、男たちは綱場へ行った。
町の人たちがぞろぞろとついてきた。雨で濡れた丸太の台は、黒く光っていた。黄色い上着の男は台の上に上がると、腕木を見上げ、車輪を見て、巻き胴の丸太を叩いた。ヒルヴァンが繕った綱を手に取って、撚り目を確かめた。あの夜も、あの明かりの下で、この綱を繕っていたのだろうか。
それから、崖を長いあいだ見下ろした。崖の下は、雨と雲で白く煙っていた。氷の棚が、雨に濡れて黒く見えていた。その下は、何も見えなかった。
男は何か言った。若い男が、また筆を走らせた。
何を気にしているのかは、わかる気がした。
この崖は、どこへ通じているのか。ここを上り下りできるのではないか。それを疑っているのだ。
僕がこの崖を上がってきたのだとしたら、それは dáloros から上に来た、ということになる。
そのとき、町の人たちの中から、一人の老人が出てきた。白いひげの、倉の老人だった。数え板を動かしていた人。そしてあの夜、炉の前で岩棚の歌を歌った人だ。棒をつき、ぬかるみに足をとられながら、ゆっくりと台の上へ上がってきた。
老人は黄色い上着の男の横に並んで、崖を見下ろした。それから、ゆっくりと、はっきりと言った。
「brúumo dulóra. brúumo fleuróra.」
黄色い上着の男は、崖の下を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
ヒルヴァンが口を開いた。
「na tóra páin es dáloros.」
棚が崩れているのだから、下からは誰も上がって来られない、ということを言っているのだろう。
黄色い上着の男はヒルヴァンを見た。それから老人を見た。それから、小さくうなずいた。
若い男が、筆を走らせた。
あの夜、炉の前で、老人が途中でやめてしまった歌。崩れて、落ちた棚の名前。それが今、黄色い上着の男をうなずかせた。
◆
綱場から町へ戻る途中で、若い男が足を止め、道端に箱を下ろした。板を膝に載せて、ヒルヴァンに何か問いかけた。
「pón þéla?」
僕の名前を、ヒルヴァンにたずねたのだ。僕のすぐ目の前で、だ。僕に聞けば、自分で答えられる。
だから、僕は自分で答えた。
「þélim híro.」
若い男の筆が止まった。彼は前を歩く黄色い上着の男の背中を、ちらりと見た。黄色い上着の男は振り返らなかった。若い男は、僕から目をそらして、もう一度ヒルヴァンを見た。答えを待つ顔だった。
ヒルヴァンは、僕を一度だけ見た。それから、低い声で答えた。
「híro.」
若い男は、板の上の紙に筆を当てた。
僕は首を伸ばしてのぞきこんだ。相手は気づいたようだったが、隠さなかった。
あの線だ。
雪の上でセルヴィーニャが、僕の名前の下に引いた、くねくねと波打つ線。
名前を書いたら、その下には、この線を引くものなのだろうか。漢文の、人の名前の横に引く線のようなものかもしれない。
◆
ここまで、誰も僕に話しかけなかった。
黄色い上着の男も若い男も、ヒルヴァンに聞いた。僕の手を取って、靴を見て、名前を書いたのに、僕には一言も、何もたずねなかった。挨拶にも、名乗りにも、返事はなかった。
僕の言葉は、まだ下手だ。聞かれても、うまくは答えられないだろう。
でも、そういうことじゃない、と思った。
この人たちは、僕に聞いても意味がない、と思っているのだ。僕の答えには、重さがない、と。
◆
井戸の前に戻ると、黄色い上着の男は、町の人たちのほうを向いた。
そして、僕を指さして言った。
「pá kráila élan?」
雨の音がしていた。誰も動かなかった。寄り合いの夜、僕を不吉だと言った、あの太った男も、黙って、自分の足もとを見ていた。
ウェレラさんが前に出た。
「kráilimor.」
寄り合いの夜、ウェレラさんが自分の分から僕に食べさせると言ったときも、méirimor と -imor で終わっていた。-im が「私が」で、-imor は「私たちが」だろうか。
kráilimor。
ウェレラさんの後ろで、ヒルヴァンがうなずいた。フレウレラさんも、ウェレルも、セルヴィーニャも。誰も、何も言わずに。
黄色い上着の男は、ウェレラさんを、長いあいだ見ていた。
それから、腰の青銅の札に手を触れた。
「séir.」
それだけ言って背を向けた。若い男が箱を背負い直して、あとに続いた。
ここでは決めない。誰か、ほかの人が決める。それまで、待っていろ。
たぶん、そういう意味なのだろう。最初の日、崖の上でヒルヴァンが僕に言ったのと、同じ言葉だった。
二人は、雨の中を、来た道へ戻っていった。町の人たちが道をあけた。
僕は雨の中に立って、二人の背中が見えなくなるまで見送った。
足もとのスニーカーに、雨がしみこんでいた。
フレウレラさんが、まだ僕の手首を握っていた。
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