第12.5話 学校

雨季の終わりの夜は、虫の声がした。

雨はもう、夕方に少し降るだけになっていた。夜になると雲が切れて、濡れた石垣の隙間から、細い虫の声がりりりと鳴った。戸口を少し開けておくと、湿った土と、刈り入れの済んだ畑の、乾きかけた藁の匂いが入ってきた。

炉の火のそばで、セルヴィーニャが灰をならしていた。

毎晩のことだった。セルヴィーニャが灰に字を書いて、僕が読む。読めたら、セルヴィーニャが次の字を書く。読めなかったら、灰をならして、もう一度書く。

でも、その夜は、字の稽古はすぐに終わった。

帳場で働き始めて、初めて町へ戻った夜だった。

セルヴィーニャは、ウェレルから帳場での話を聞いていた。帳場の帳面の誤りを、僕が見つけたこと。九十の違い。老人の数え盤より、僕のほうが速かったこと。ウェレルは、身振りつきで、何度も話した。話すたびに、数が少しずつ大きくなっていった。

セルヴィーニャは、灰の上に、高原の数字を一つ書いて、それから棒を置いた。

僕の顔を、じっと見た。

「pórin ráines rimbáis bróusais, híroどうやってそんなにたくさんの数を知ってるの、尋?」

いつか、聞かれると思っていた。

◆

どう言えばいいのか、わからなかった。

学校で習った。それだけのことなのに、言えない。学校、という言葉も、習う、という言葉も、僕はまだ知らなかった。

まず、習う、からだ。

僕は灰の上に字を一つ書いて、指でなぞった。それから、セルヴィーニャの書いた字を指さして、読むまねをした。最後に、指を折って数を数えてみせた。

「lísim書く lisáis字. vóilim読む lisáis字. rímbim数える rimbáis数……」

それから、両手を広げて、それを全部まとめるような仕草をした。

「pó éso?」

セルヴィーニャは首をかしげた。僕はもう一度、灰の上の字と、セルヴィーニャの顔と、自分の胸を、順番に指さした。毎晩、ここでしていること。セルヴィーニャが書いて、僕が読むこと。

セルヴィーニャの顔が、ぱっと明るくなった。

「klóimes!」

それから、自分の胸を指さして、胸を張った。

「ésimわたしは rainiþár tásesあなたの!」

klóimes。-es は「あなたが」だ。あなたが、何かをする。毎晩ここで僕がしていることを、klóim と呼んだ。習う、とか、学ぶ、とか、そういうことだろう。

rainiþár のほうは、セルヴィーニャ自身のことだった。ráin は、知る。その後ろに -íþ- がついている。dulíþa が「下りさせる」で「下ろす」なら、rainíþ は「知らせる」。教える、だ。そこに、funelár綱の係 と同じ -ár。教える係。

先生だ。得意そうな顔からすると、たぶん間違いない。

僕は灰の上に、大きな四角を描いた。その中に、小さな丸をたくさん。四角を指さして、丸を指さして、それから、さっき覚えたばかりの言葉を言った。

「klóiman習う endríñai子どもたち. pó éso?」

四角のほうを、とんとんと叩いた。

セルヴィーニャは、四角と丸をしばらく見ていた。それから、ゆっくり言った。

「kloimándo.」

klóim の後ろに、-ándo。

dulándo と同じ終わり方だった。dúl は下りる。ドゥランドは、下りるところ。だとしたら、kloimándo は、習うところ。学校だ。

それで、やっと言えた。

「klóimim習う un kloimándoi学び舎で.」

セルヴィーニャが、目を丸くした。

「ké éses endríña lisáres尋は書記の子なの?」

lisáres。lís- は書く。-ár がつけば、書く係。書記の、ということだろう。

この子にとって、学び舎に通う子といえば、書記の家の子なのだろう。

僕は、首を振った。炉の灰の、セルヴィーニャがならしたところに、指で四角を描いた。それから、四角の中に、小さな丸をたくさん描いた。

「un bóraloi, sán endríñai fáirombar一つの家に、子どもが四十人. ésa rainiþár ín先生が一人. ínin órel, klóiman lisáis si rimbáis毎日、字と数を習う.」

セルヴィーニャは、灰の上の丸を、指で数えはじめた。途中でやめた。四十も描いていなかった。

「ínin órel? ómbra endríñai毎日? 子どもはみんな?」

「ómbraみんな.」

セルヴィーニャの指が、止まった。

しばらく、何か考えていた。それから、慎重に、一語ずつ聞いた。

「silóur endríñai faronárar運び人の子も?」

「éunうん.」

セルヴィーニャは、炉の向こうで眠っているウェレルを見た。運び人。それから、灰の上の、子どもたちを表す丸を見た。

◆

「un funelóroi, ráino lisáis hóum ínこの町で、字を知ってる炉は一つだけ.」

自分の胸を指さした。

「dórvarうち.」

この町で、字を読み書きできるのは、うちの炉だけなのだという。dórvar は、ただの「うち」ではなく、この家の呼び名なのかもしれない。綱の係の家だからだろうか。綱で上げ下ろしする荷の、荷札を読むために、昔から子どもに字を教えてきたのかもしれない。旧道がなくなって、荷が来なくなっても、その習いだけが残った。

だから、この子は字が読める。ウェレラさんに教わった。ウェレラさんは、そのまた母さんに。

ほかの炉の子は、字を知らないのだろう。倉の老人も、数え盤の石は動かせるけれど、字は読めないのだろう。井戸端の女の人たちも、たぶん。

灰の上の丸を、一つずつ指でなぞった。

「ké sán þrénul téndoi向こうに?」

þrénul は、知らない言葉だった。

自分の上着の襟をつまんで、何枚も重ねるような手つきをした。それから、手のひらを高く上げて、低く下げた。上と、下。いつかウェレルが、黄色い上着の役人のまねをしたときと、同じ手つきだった。

上着を何枚も重ねた人と、そうでない人。上と、下。そういうものが、僕の国にもあるのか、と聞いているらしい。

「nésううん. naない sán þrénul.」

聞いたばかりの言葉を、そのまま返した。

セルヴィーニャは、目を丸くした。それから、声を出して笑った。

「lúdroうそ!」

嘘だと思ったらしい。

僕は、首を振った。本当に、ない。偉い人はいる。お金持ちもいる。でも、上着の色で、どこに座るかが決まったりはしない。子どもは、みんな、同じ部屋で、同じ字を習う。

言えたのは、そのうちの、ほんの少しだった。残りは、身振りと、灰の上の絵で伝えた。どこまで伝わったのかは、わからない。

彼女は、笑うのをやめて、長いあいだ黙っていた。

◆

それから、別のことを聞いた。

「ké sán anlóurai táses téndoi尋のお父さんとお母さんも向こうにいるの?」

僕は、うなずいた。

母さんの顔が浮かんだ。台所で、何か言いながら振り返る顔。父さんは、たぶん、居間で新聞を広げている。夕方の六時。テレビの音。

あれから、どれくらいたったのだろう。向こうでは、僕は、どういうことになっているのだろう。

そこまで考えて、喉の奥が詰まった。灰の上の丸を、見ていられなくなった。

セルヴィーニャは、それ以上、聞かなかった。

黙って、灰をならした。それから、灰の上に、高原の字で、短い言葉を一つ書いた。

nemor silóurnémor silour

私たちも。

それから、その横に、もう一つ。

esimor sendoiesimor sendoi

ここにいる。

僕は、その字を見つめていた。

炉のそばで、ヒルヴァンが弓の弦を張り替えていた。フレウレラさんは、機の前で杼を走らせていた。ウェレラさんは、炉の向こうで目を閉じて、眠っているのか起きているのかわからなかった。ウェレルの寝息が聞こえた。

私たち。

その「私たち」に、僕が入っているのかどうか、セルヴィーニャは書かなかった。でも、書かなくてもわかるように書いてあった。

彼女は、何も言わなかった。灰の上の字を、すぐに手のひらでならして、消してしまった。

消えたあとも、僕はしばらく、灰の上を見ていた。

◆

しばらくして、セルヴィーニャが、ぽつりと言った。

「rainiþéim教える endríñail子どもたち lisáis字, ném silóurわたしも.」

教える。子どもたちに。字を。わたしも。

セルヴィーニャは、さっき、子どもたちの丸を描いた場所を見ていた。

それから、急に恥ずかしくなったのか、棒を拾って、僕の額を軽く叩いた。

「vóil読め.」

灰の上に、新しい字が書いてあった。

字の稽古の続きだった。

虫の声が、戸口の外で、まだりりりと鳴っていた。

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