第29話 私が書く

霧が持ち上がって雲になり、雨が降りはじめた。

ある朝、戸口を開けると向かいの家の屋根が見えた。二十日ぶりくらいだった。白いものは地面から剥がれるようにゆっくり上へ昇っていって、昼過ぎには町の上に低い灰色の天井ができていた。夕方、最初の粒が井戸の縁の石に黒い点をつけた。

去年と同じ、細い糸を垂らしたような雨だった。屋根の石を一日じゅう静かに叩いて、軒から細い筋になって落ちる。軒下の甕がその筋を受けて、少しずつ満ちていく。石の原のくぼみに水がたまり、白糸川の音が日ごとに太くなっていった。

段々の畑では町の人たちが腰をかがめて、濡れた土に粟を播いていた。丸めた背中の列が畝に沿ってゆっくり動いていく。家の中では炉の上に渡した竿にいつも誰かの上着が干してあって、湿った毛と煙のにおいが寝床までついてきた。

雨季の帳場は暇だ。硬木は下りないし、崖の下の市も開かない。それでも十日に一度は帳面を抱えてドゥランドへ通った。帳面は油を引いた布で包んで、上着の内側に抱えていく。道はぬかるんで帰りにはすねまで泥がはねている。

帳面はほとんどが刷った証文だった。冬じゅう谷から橇で届いた、二百本近くの丸太の預かり。冬のあいだに綱場まで昇った塩の箱。どの紙も枠と括りが黒く刷ってあって、空いたところに僕の字が入っている。並べると同じ顔の紙がずらりとそろう。自分で言うのもなんだけど、ちょっと気持ちがいい。

レウマンさんはその束を机の上で一枚ずつめくった。

帳場の中は雨の日の暗さだった。窓の板戸を半分だけ上げてあって、そこから入る灰色の明かりが机の端だけを白くしている。屋根を叩く雨の音と、紙をめくる乾いた音しかしない。

三枚目で手が止まった。紙を窓の明かりにかざして、刷った線と僕の書いた字を見比べた。指先で括りをなぞった。墨のにじみ方が刷った線と手で書いた線とで違う。刷った線は紙の目に沿ってきっちり止まっている。僕の線は少しだけ毛羽立っている。

長いあいだ黙っていた。きれいに刈りそろえた顎ひげを、親指の腹で一度だけ撫でた。考えごとをするときの癖だ。それからその一枚を自分の机の引き出しにしまった。

「kráilim.」

僕の帳面は返ってきた。一枚だけ、帳場に残った。

引き出しが閉まる音を聞きながら、僕は帳面を布で包み直した。一枚減っただけなのに、帰り道の帳面は少し軽かった気がする。

◆

ウェレルも雨季は大石段で荷を担いでいて、半月ほどに一度町に帰ってくる。

帰ってきた晩のウェレルはいつも濡れた毛皮のにおいがして、炉ばたに座るなり湯気を立てる。肩の皮は荷縄の跡で赤く擦れていた。

その晩の夕飯でウェレルは粥をかきこみながら、次はいつ帰るかをウェレラさんに言った。

「dáu rúsilau, hóinim赤い月二つで帰る.」

日で言えばすむのに、なぜ赤い月で言うのだろう。

「ké rímbes rúsilais赤い月を数えるの?」

ウェレルは匙をくわえたまま、腰の袋から棒を一本出した。

数え棒だった。運び人の頭が腰に下げていたのと同じような、刻み目の棒。手の脂でつやつやに黒ずんで、角が丸くなっている。何年も腰に下げてきたのだろう。ただ、刻み目が二種類あった。ふつうの刻み目と、ところどころに炭で黒く塗った刻み目。

黒い刻み目と黒い刻み目のあいだは、七つか八つ。

七日半。赤い月が満ちて、次に満ちるまで。

「rímban faronárai rúsilais運び人は赤い月を数える.」

ウェレルの話は早口で、半分も聞き取れなかった。崖の下の縁商人と荷の受け渡しをする日を昔から赤い月で決めている、ということらしかった。下の国の人たちは赤い月で日を数えるのだという。

棒の先のほうの黒い刻み目に、さらに小さな輪を刻んだところがあった。ウェレルはそこを親指で押さえた。

「káulan álmar si rúsil白い月と赤い月がいっしょに満ちる.」

それから崖の下のほうへ顎をしゃくって、言った。

「kulu-tíkamé.」

縁商人の女が布の上で叩いた言葉だった。あのとき女の指は布に描いた丸と丸のあいだを何度も行き来していた。

僕は輪の刻まれたところを数えていった。この雨季のうちに、二つあった。一つは雨季に入って間もなく。もう一つは雨季の終わり。

運び人は先の日まで刻んでおくのだ。まだ来ていない夜の印を、もう腰に下げて歩いている。

◆

その夜、僕は炉ばたで灰に図を描いていた。

みんなが寝床に入ったあとだった。炉の火は熾きになって、赤い光が灰の表面を低く照らしている。屋根の雨音が眠気を誘う。指先が灰で白くなった。

まん中に日。そのまわりに二つの月の通り道。

月が満ちて見えるのは、地球なら、月が太陽のちょうど反対側にいるときだ。日の光をまっすぐ正面から受けている。中学の理科の、あの丸がいっぱい並んだ図だ。テストに出たときはただの暗記だったのに、こんなところで役に立つとは思わなかった。

白い月と赤い月がいっしょに満ちる。それは二つの月が両方とも、日の反対側にそろっているということだ。日と、赤い月と、白い月。三つがだいたい一列に並ぶ。

赤い月は近い。白い月は遠い。一列に並ぶ夜なら、近い赤い月が遠い白い月の前を横切る。

重なりの夜はこの夜のどれかだ。

でもいっしょに満ちる夜は一年に三度か四度ある。重なりは五年か六年に一度しか来ない。だから、ぴったり一列になるのはそのうちのごくわずかなのだと思う。どれがそうなのかは昔の重なりの日付と突き合わせるしかない。

年だけでは足りない。どの季節の、どの夜だったのか。

それを知っているのは、エルサンの炉の奥にいる彼女だけだった。

僕は灰の図を手のひらで消した。消してから、寝床に入ってもしばらく目が冴えていた。

◆

次の夜、僕はエルサンの炉の奥でウェレルの棒のことを話した。

言葉が足りないので、灰に丸を描き、指を折り、棒の刻み目の形を指で空中に刻んでみせた。運び人が赤い月を数えていること。白い月と赤い月がいっしょに満ちる夜に、輪の印がついていること。この雨季の終わりにも、その夜があること。昔の重なりがどの季節だったか教えてほしい、ということ。

細い目がだんだん細くなっていった。

僕が言い終わると、炉の火に目が戻った。

「faronáres rimbá運び人の数え方.」

口の端が下がっていた。赤い月を下の国の月と呼んだときより、ずっと下がっていた。

それきり何も言わなかった。その夜は数を言っても、うなずかなかった。炉の火のはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。

帰り道、雨の中で考えた。

石の原は真っ暗で、足もとの水たまりを踏むたびに冷たいものが足の指のあいだへしみてくる。家々の板戸の隙間から、炉の明かりが細い線になって漏れていた。

都の人は何でも書く。数にうるさい。それなのに運び人の数え方には口の端を下げる。下の国の月で日を数えることが、気に入らないのかもしれない。下の国の暦を見たときも、顔をそむけていた。

ウェレルの棒はウェレルのものだ。運び人が何代もかけて覚えてきた数え方だ。僕にはそれで十分だった。でも昔の重なりの季節がわからなければ、どの夜なのかは決められない。

正直に言うと、ちょっとむっとしていた。ウェレルの棒を下に見られたことに。それと、答えのすぐ手前で扉を閉められたことに。どっちのほうが大きいのかは、自分でもよくわからなかった。

◆

それから八日、夜に数を言いに行っても彼女はうなずかなかった。

僕は数を言うのをやめなかった。七百九十九。八百。八百一。

炉ばたの端に座って数を言い、しばらく火を見て、帰る。細い目は炉の火から上がらない。聞こえていないはずはなかった。エルサンの孫はもう奥へ知らせに走らなくなって、戸口で僕を見ると気の毒そうな顔をした。

ここでやめたら、数を言うのが取り引きだったことになる気がした。そうじゃない。それだけははっきりしていた。

九日目の夜だった。

ドルヴァルの炉でみんなが寝る支度をしていたとき、戸口が鳴った。

こんな雨の夜に戸を叩く人はいない。

ヒルヴァンが戸を開けた。

雨の中に彼女が立っていた。

生成りの上着が肩から濡れて色を変えていた。ふくろうの羽が髪に張りついていた。灯りも持たずに雨の夜道をここまで来たのだ。裾から雫が落ちて、戸口の石に小さな水たまりを作っていく。唇の色が薄かった。

炉ばたがしんとした。セルヴィーニャが粥の鍋を抱えたまま固まっていた。ウェレルが口を半分開けていた。ヒルヴァンでさえ、戸に手をかけたまま動かなかった。

何がそんなにおおごとなのか、僕にはわからなかった。夜に人が訪ねてきただけだ。でもみんなの顔を見れば、ただの客ではないことだけはわかった。

ウェレラさんだけが動いた。杖をついて立ちあがると、炉の上手の自分の座をあけた。いつもウェレラさんが座る、一段高い座だった。

「aldanénde.」

彼女は少しだけ迷うように見えた。それからその座に腰を下ろした。背筋を伸ばして、濡れた膝の上で両手を重ねた。

ウェレラさんは低い座の端に移った。

ウェレラさんがあの座を誰かに譲るのを、僕は初めて見た。

◆

炉の灰をならしてくれとも言わなかった。自分で炉の端の灰を指で平らにした。

濡れた指先に灰がくっついて、灰色の手袋みたいになった。気にするそぶりもなかった。

それから唱えはじめた。

重なりの年。五年前、十一年前、十六年前。今度は年のあとに、もう一つ言葉が続いた。僕の知らない言葉。たぶん、月の名前だ。

一つ唱えるたびに、灰の上に指で線を引いた。年の始まりから、白い月がいくつ巡ったところか。線の数で季節がわかる。

炉ばたの誰も口をきかなかった。セルヴィーニャは鍋を下ろして、膝をそろえて座り直していた。熾きのはぜる音と、屋根の雨音と、低い唱え声。その合間に灰をこする指の音がする。

五年前は冬の終わり。十一年前は乾季の初め。十六年前は雨季の初め。二十二年前は秋の半ば。

ばらばらだった。冬、乾季、雨季、秋。決まりなんてどこにもなさそうに見える。

灰の上に並んだ線の束を、僕は端から目でなぞった。一つ進むたびに線の数が大きく跳ぶ。年の半分くらい。

そうか。重なりの間は五年と六年がかわるがわるで、ならせば五年半だ。半年ぶん余るから、続けて見ると季節は年の反対側へ跳んでしまう。

それなら一つおきに見ればいい。それで十一年。余りはほとんど出ないはずだ。

二十二年前の秋の半ばと、十一年前の乾季の初め。十六年前の雨季の初めと、五年前の冬の終わり。指で線を数えた。どちらも季節が少しだけ前へずれている。ずれ方はほとんど同じだった。重なりの間は五年半より、ほんの少しだけ短いのだろう。

十一年前の乾季の初めから、もう一つおきに進める。十一年たって、同じだけ前へずれる。乾季の初めのほんの少し手前。年の終わり。

今年の雨季の終わりだった。

ウェレルの棒の、輪のついた刻み目と同じところだった。

背中がぞくっとした。灰の上の線と腰の棒の輪が、別々の道を通って同じ夜に着いている。

◆

ウェレルが黙って棒を彼女の前に置いた。

すぐには手が伸びなかった。棒を見ていた。炭で黒く塗った刻み目。その上の小さな輪。運び人の数え方。下の国の月の数え方。

細い目が棒の上で長いあいだ止まっていた。何を考えているのか、顔からは読めなかった。

ウェレルが筆を取って、自分で輪の横に印をつけようとした。

細い指がそれを止めた。

「lísim.」

ウェレルの手から筆を取った。

墨壺に筆の先を浸して、ウェレルの棒の輪の刻み目の横に、小さな字を書いた。高原の数字と、月の名前らしい字。都の字の、細くて正確な線だった。丸い棒の上なのに、線は少しも揺れなかった。

運び人の棒に天文台の見習いが日付を書いた。

書き終えると、筆をウェレルに返した。それから棒をウェレルに押しやった。頭は下げなかった。でも両手で押しやった。

ウェレルは棒を受け取って、輪の横の字を親指でそっとなぞった。墨がまだ乾いていないのに気づいて、あわてて指を離した。親指の腹に小さな黒いしみが残っていた。

◆

彼女が帰ったあと、炉ばたはしばらく誰もしゃべらなかった。

ヒルヴァンが戸口まで送っていって、雨の向こうへ消えていく背中を見ていた。灯りを持たせようとしたのかもしれない。戻ってきた手は空だった。

セルヴィーニャが最初に息を吐いた。

ウェレラさんは自分の座に戻ると、さっきまで客が座っていたところを手のひらで一度だけ撫でた。

僕はウェレルの棒を借りて、輪の横の字を見た。

熾きの赤い光に棒をかざすと、墨の線がかすかに光った。細くて、迷いのない字だった。

雨季の終わり。白い月と赤い月がいっしょに満ちる夜。

その夜に雲が切れていれば。

雨はその夜も屋根の石を静かに叩いていた。

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