第3話 あなたが持つ

五日たった。

寝床の脇の壁の隙間に、薪の切れ端を一本差しこんである。毎朝、目が覚めると、炉の脇から拾った尖った石で、それに一本ずつ傷をつける。今朝で五本になった。レシートには、あの日の日付が印字されている。向こうでも同じだけ日が過ぎているなら、この傷を数えれば、今日が何月何日なのかわかる。

五日のあいだに、僕はいくつかのことを覚えた。

朝は、まだ暗いうちに目を覚ます。この家でいちばん早く起きるのはウェレラさんで、その次が僕になった。ウェレラさんが炉の灰をかき立てて、燠に新しい薪をくべる。灰の舞う、乾いた匂い。小枝がぱちぱちと爆ぜる音。その音で目が覚める。

水は、町の真ん中の井戸から汲んでくる。桶は二つ。一つは僕が持ち、もう一つはセルヴィーニャンが持つ。井戸の縄は、朝いちばんには凍っていて、たぐると手のひらに霜がつく。最初の日はかさぶたが割れたけれど、今はもう、硬い皮になりかけている。

歯は、小枝で磨く。井戸端で、セルヴィーニャンは細い小枝の先を噛んでほぐし、それで歯をこする。最初の朝、僕にも一本くれた。噛むと、松やにのような苦い味がした。歯ブラシとは似ても似つかない。それでも、こすったあとは口の中がすっとした。仕上げに、セルヴィーニャンは腰の小袋から塩をほんの少し指先につけて、歯ぐきにすりこむ。僕の分の塩はなかった。あの白い粒は、そう気前よく使うものではないらしい。

薪は、家の裏の小屋に積んである。斧で割るのは弓の男の仕事で、割った薪を炉のそばまで運ぶのは僕の仕事になった。男が斧を振り下ろすと、かん、と澄んだ音がして、薪が二つに分かれて左右に倒れる。一度も、二度打ちをしない。

ゆうべの夕方、町の外れの小さな小屋から白い煙が上がった。弓の男が僕の肩をつついて、顎で小屋を指した。出がけにセルヴィーニャンが片手の指を五本広げて、小屋のほうへ振ってみせた。五日に一度、ということらしい。

中に入ると、むっとする熱気が顔に張りついた。真ん中に焼けた石が積んであって、年寄りが柄杓で水をかけるたびに、じゅっと音がして、湯気が天井まで噴き上がる。

サウナだ。

壁ぎわに板の段が三つあった。年寄りたちは上の段に、弓の男と僕はいちばん下の段に座った。外では遠巻きにされていたのに、ここでは誰も何も言わなかった。隣の男が、少しだけ尻をずらして場所を空けてくれた。湯船はどこにもなかった。お湯につかる、という考えがここにはないらしい。

汗が噴き出すと、男たちは小枝の束で自分の背中をばしばし叩いた。それから外へ飛び出して、雪の上に転がった。弓の男も転がった。僕も押し出された。熱い体に雪が触れた瞬間、声も出なかった。心臓が止まるかと思った。

ところが、二度目に小屋へ戻ると、体の芯からじんわりと温かくなってきた。落ちてきてから、ずっと体のどこかが冷えていた。それが、初めて消えた気がした。

◆

朝、井戸へ向かう途中で、セルヴィーニャンが道ばたで立ち止まった。何かを見つけたらしく、しゃがみこんで、雪の上を指でつついている。のぞきこむと、小さな鳥の足跡が、雪の上に点々と、どこかへ続いていた。

僕は少し先まで歩いてから、振り返って呼んだ。

「selvíñan!」

今度は、ちゃんと n を付けた。家族ではない僕は、ていねいに呼ぶべきなのだ。前の失敗から、ちゃんと学んだ。

セルヴィーニャンは顔を上げた。

そして、ぷっと吹き出した。

しゃがんだまま、膝を叩いて笑いだした。笑いすぎて、雪の上に尻もちをついた。それでもまだ笑っていた。

「selvíñan?」

笑いながら、僕の口まねをした。語尾をわざと持ち上げて、それからまた笑った。

僕は雪の中に突っ立ったまま、その笑いが収まるのを待った。

おかしい。n を付けたのに。ていねいに呼んだはずなのに。

セルヴィーニャンはやっと笑いやむと、立ち上がって、尻の雪を払った。それから、自分の胸を指さして、何か言いかけてやめた。首をかしげて、困ったような顔をした。どう説明したらいいのかわからない、という顔だった。

結局セルヴィーニャンは、肩をすくめて、僕の腕を引っぱって歩きだした。説明はなかった。

n は「さん」じゃないのかもしれない。

あの日の僕の名推理が、ぐらぐらと揺れだした。

じゃあ、n は何なんだ。呼び捨てでも笑われて、n を付けても笑われるなら、僕はこの子を何と呼べばいいんだ。

前を行くセルヴィーニャンの編んだ髪が、歩くたびに背中で跳ねていた。答えを知っている人が、すぐ目の前にいる。なのに、それを訊く言葉がない。言葉を覚えるための言葉がないというのは、鍵のかかった箱の中に、その箱の鍵が入っているようなものだった。

◆

昼前、弓の男が僕を連れ出した。

男はセルヴィーニャンの父親のようだった。町の人たちからは「ヒルヴァン」と呼ばれていた。五日のあいだに、それは聞き取れるようになった。

ヒルヴァンは口数の少ない男だった。僕に話しかけることはめったにない。用があるときは、顎で示すか、手招きするか、短い一言で済ませる。その一言も、僕にはほとんどわからない。だから、ヒルヴァンと二人きりになると、気まずい沈黙だけが続く。

ヒルヴァンが向かったのは、崖のほうだった。

家々のあいだを抜け、崩れかけた石垣に沿って斜面を下りていく。ヒルヴァンは大股で、振り返りもしない。雪の上に残る大きな足跡の中に、僕は自分の足を入れて歩いた。そのほうが、雪に足をとられなかった。ヒルヴァンの吐く白い息が、肩の上を後ろへ流れていった。

五日前の夜、僕を引き上げた場所だ。

明るいところで見ると、そこは思っていたよりずっと大がかりな場所だった。崖の縁に、太い丸太を何本も組んだ台がある。台の先から、一本の太い腕木が崖の外へ突き出していた。腕木の先端に、木でできた車輪がひとつ取りつけてある。車輪のふちには溝が彫ってあって、そこに綱をかけて、崖の下へ垂らす仕組みらしい。

滑車だ。

台の根元には、横倒しにした太い丸太があって、その丸太に綱が巻きつけてあった。丸太の両端に、取っ手のような棒が何本も差しこまれている。あの夜、何人もの人たちが拍子を合わせて叫びながら回していたのは、これだったのだ。棒を押して丸太を回すと、綱が巻き取られて、崖の下のものが上がってくる。

どの木も、灰色に乾いて、ひび割れていた。苔が生えているところもあった。ずいぶん長いあいだ、雨ざらしで放っておかれたのだろう。それなのに、車輪の軸のところだけは、黒く濡れたように光っていた。新しい脂が塗ってある。あの夜のために、誰かが塗ったのだ。

綱で、何かを上げ下ろしするための場所。僕は心の中で、ここを「綱場」と呼ぶことにした。

台の端まで行って、おそるおそる下をのぞいた。

足の裏がむずむずした。腕木の先から、何もない空間を隔てたずっと下に、あの岩棚があった。思っていたより、ずっと近い。十五階建てのビルの屋上から、地面をのぞくくらいだろうか。平らな床と、崩れた段と、壁に打ちこまれた緑色の輪まで、ここからでも見える。棚の奥の、僕が膝を抱えていたくぼみも。

あそこで一晩、星を数えていたのだ。

下から見上げたときは、崖のてっぺんは途方もなく遠く見えた。上から見ると、こんなに近い。あの日、ヒルヴァンはこのあたりに立って、僕を見下ろしていたのだ。

ヒルヴァンが、台の上の綱を手に取って、僕に向かって突き出した。

「kráil fúnel.綱を持て」

僕は綱を受け取った。

ヒルヴァンは綱のあちこちを指さした。綱のところどころに、すり切れて毛羽立った部分がある。あの夜、僕の重みと崖の岩にこすられて傷んだのだ。ヒルヴァンはそのすり切れた部分を、新しい繊維で巻いて補強していくらしい。僕の役目は、綱をぴんと張って持っていることだった。

ヒルヴァンは黙々と作業を始めた。太い指で、器用に繊維を巻きつけていく。巻くたびに、繊維を歯で噛んで、ぎゅっと締める。僕の綱の持ち方が悪いと、僕の手をつかんで正しい位置に直した。その手はごつごつしていて、驚くほどあたたかかった。僕の手のほうは、綱を握っているうちに指の感覚がなくなってきて、自分の手ではないみたいだった。

作業のあいだ、僕はずっと滑車を見ていた。

車輪は、腕木の先にひとつだけ。綱は車輪にかかって、まっすぐ下へ垂れる。

あの車輪は、綱を引く向きを変えているだけ。定滑車だ。引き上げるものの重さは、全部一本の綱にかかっている。

もし引き上げるものの側に、もうひとつ車輪があったら。

動滑車だ。動滑車を一つ使えば、引く力は半分ですむ。うまく組み合わせれば、四分の一にもできるはずだ。そのかわり、綱をたくさん引かなきゃいけなくなる。仕事の量は同じでも、一度にかかる力は小さくなる。

ネタ帳にその知識はあった。

心臓が少し速くなった。

僕は綱を持ったまま、足もとの雪を見た。それから、片方の足で雪の上に線を引いた。丸を二つ描いて、そのあいだに綱の線を通した。上の丸から下の丸へ、下の丸から上へ。

ヒルヴァンが手を止めて、雪の上の絵を見た。

僕は上の丸を指さして、それから腕木の先の車輪を指さした。次に、下の丸を指さして、崖の下を指さした。

これを、ここに。もうひとつ。そうしたら、軽くなる。

身振りで、それを伝えようとした。両手で重いものを持ち上げるまねをして、それから、片手で軽々と持ち上げるまねをした。

ヒルヴァンはしばらく雪の上の絵を見て、それからブーツのつま先で絵を踏み消した。

ざっ、ざっ、と二度。丸も線も、雪の中にかき消えた。

ヒルヴァンは何も言わずに、また作業に戻った。

僕は、かき消された雪を見下ろした。

……そうだよな。

言葉もろくに話せない、どこから来たのかわからないやつが、雪の上に丸を描いて、何かわめいている。それだけのことだ。伝わるはずがない。伝わったとしても、聞く理由がない。

それに、たぶん、このままではだめなのだ。動滑車をつければ、綱は倍の長さが要る。そんな綱が、この町にあるだろうか。

知識は、それだけでは形にならない。崖の途中で思ったことを、僕はもう一度、雪の上で思った。

作業が終わって、二人で家へ帰る途中、先を歩いていたヒルヴァンがふと足を緩めた。肩越しに、綱場のほうを見ていた。

僕も振り返った。崖の縁の綱場が、遠くに小さく見えた。

ヒルヴァンが見ていたのは、たぶん、さっき絵を踏み消したあたりだ。ほんの一瞬だった。僕と目が合う前に、ヒルヴァンは前を向いて、歩く速度を上げた。

◆

その日の夕方、町の寄り合いがあった。

寄り合い、というのは、僕が勝手に呼んでいるだけだ。夕方になると、町じゅうの家から大人たちが出てきて、町の上手にある、いちばん大きな建物へ集まっていった。ウェレラさんとヒルヴァンも出かけていった。ウェレラさんは、いつもの灰色の毛織物の上に、もう一枚、縁に模様を織りこんだ肩掛けを重ねていた。出がけに、ヒルヴァンが戸口で振り返って、僕とセルヴィーニャンに何か短く言った。炉を指さしたから、ここにいろ、ということだろう。

戸が閉まった。雪を踏む足音が遠ざかっていった。

セルヴィーニャンは炉のそばで、しばらくじっとしていた。それから、戸口のほうを見て、僕を見た。

にやっと笑った。

セルヴィーニャンは壁の釘から毛皮の上着を二枚外して、一枚を僕に放ってよこした。そして、口の前に人差し指を立てた。

静かに、ついてこい。

一瞬、迷った。ここにいろ、と言われたばかりだ。でも、あの建物で何が話されるのか知りたいのは、僕も同じだった。

外は、夕暮れの青に沈みかけていた。西の空の低いところだけが、まだ薄い橙色に残っている。雪の上の影が長く伸びて、家々の戸口から漏れる炉の明かりが、ひとつ、またひとつと黄色く灯りはじめていた。

僕たちは、大人たちから少し遅れて、雪の道を上った。セルヴィーニャンは表の道を通らなかった。家と家のあいだの細い隙間を抜けて、崩れた石垣を乗り越えて、大きな建物の横手に回った。迷いのない足どりだった。石垣のどこに足をかければ崩れないか、ちゃんと知っている。こういうことをするのは、初めてじゃないらしい。

建物の横には、小さな戸口があった。戸板が外れかけていて、すきまから明かりが漏れている。セルヴィーニャンはそこにしゃがみこんで、僕を手招きした。

二人で、戸口の陰から中をのぞいた。

中は倉だった。

とてつもなく大きな石造りの倉だ。天井は僕のいる家の二倍は高い。奥行きは、暗くて端が見えない。壁に挿した松明が二本、煙を上げていて、その明かりは倉の手前の三分の一くらいまでしか届いていなかった。乾いた穀物の粉っぽい匂いと、古い木と、かすかに鼠の匂いがした。

その広い倉の、手前の一角に壺が並べてあった。人の背丈の半分くらいある、大きな素焼きの壺だ。二十個か、三十個か。どの壺も、口を革で覆って、紐で縛ってある。壺の肩のところに、何か刻んであった。縦の短い弧が何本か並んだもの(3)や、杯のような形の中に弧が入ったもの(7)。壺ごとに、刻み方が違う。

壺の前に町の大人たちが二十人ほど集まって、立ったまま輪になっていた。真ん中に背の曲がった白いひげの老人がいて、地面に置いた板の前にしゃがみこんでいた。

板の上には、縦の線が何本も引いてあった。その線の上に、白い小石と、黒い小石が並べてある。

老人が壺を一つずつ指さして、声に出して数えはじめた。

「ín, dáu, téir, fáir, lím.」

壺を一つ指さすたびに、老人は板の上の小石を一つ動かした。

「sóur, nél, ánþa, réum, ombár.」

数だ。

僕はセルヴィーニャンに向かって、一本ずつ指を増やしながら、その音を繰り返した。ín一 、 dáu二 、 téir三 、 fáir四 、 lím五 。セルヴィーニャンがちらりとこちらを見て、うなずいた。

老人は壺を一つ数えるたびに、板の上に白い石を一つ置いた。四つまでは白い石が並んだ。五つ目のところで、老人は白い石を四つ全部取りのけて、かわりに黒い石を一つ置いた。十まで数えたところで、老人は右端の黒い石と白い石を全部取りのけて、その左隣の線に、白い石を一つ置いた。

繰り上がりだ。

これは大きいそろばんなのだ。白い石が一で、黒い石が五を表している。

僕は戸口の陰で、小さくうなずいた。笑っていたかもしれない。セルヴィーニャンが、何がうれしいの、という顔でこちらを見た。言葉も、習わしも、何ひとつわからない場所で、初めて、僕の知っている形のものに出会ったのだ。

老人の声は、まだ続いていた。

「ombár ín, ombár dáu, ombár téir……」

十と、一。十と、二。十と、三。板の上でも、老人は左の線に白い石を一つ置いたまま、右の線に、また白い石を並べはじめていた。

十のまとまりに、一つずつ足していく。十進法だ。

僕はセルヴィーニャンの袖を引いた。セルヴィーニャンが、何、という顔で振り向いた。僕は両手を開いて、指を十本、顔の前に立てた。

「ombár?十?」

ほとんど声にならない声で聞いた。セルヴィーニャンはちょっと目をしばたたいて、それからうなずいた。

僕は十本の指を見せて、それから人差し指を一本だけ立てた。

「ombár ín?十一?」

うなずいた。

今度は、十本を見せて、握って、もう一度、十本を見せた。

「dáu ombár?二つの十?」

セルヴィーニャンは噴き出しそうになって、慌てて自分の口を押さえた。それから首を横に振って、僕の耳もとに口を寄せて、ゆっくりとささやいた。息が耳にかかって、くすぐったかった。

「dáumbar.」

dáu と ombár がくっついて、縮まったのだ。三と百がくっつくと「さんびゃく」になるみたいに、よく使う組み合わせは、音が変わってしまうのだろう。

「……dáumbar sóur, dáumbar nél, dáumbar ánþa.」

老人が数え終えた。板の上には、左の線に白い石が二つ、右の線に黒い石が一つと、白い石が三つ。

二十と、八。二十八個。

輪になった人たちが、ざわざわと何か言い合いはじめた。誰も、明るい顔はしていなかった。壺を一つずつ、ため息をつくような目で見ている人がいた。

二十八の壺。それが、この町の冬の食べ物の全部なのだろうか。倉の奥の、松明の届かない暗がりを見た。これだけ大きな倉なら、昔は奥までいっぱいだったのかもしれない。

◆

ざわめきの中で、聞き覚えのある声がした。

「ésa dulána gráis.」

あの太った男だった。最初の夜、僕を指さして何か言った男だ。今夜も、あの上等そうな外套を着ていた。

男は輪の真ん中に進み出て、壺を指さして、何かまくし立てた。dulána、という言葉が何度も出てきた。それから、手のひらで壺を叩いて、こう言った。

「na éso tambór dulánei.」

何人かがうなずいた。うなずかない人もいた。でも、誰も反対しなかった。

隣で、セルヴィーニャンの体がこわばるのがわかった。

dulána。最初の夜、町の人たちが僕を見てささやいた言葉だ。意味はわからない。でも、いい意味ではないことだけは、あの夜の人たちの顔でわかった。

太った男は、僕のことを話しているのだ。

壺を叩きながら。

男の言っている意味はわからなかった。でも、わからないなりに、わかってしまった。この壺の中身は、この町の冬の食べ物で、それは足りていなくて、そこに、どこの誰ともわからない僕が、一人増えた。

腹の底が、すっと冷えた。

五日間、僕は出された粥を、出されただけ食べてきた。それがどこから来ているのか、一度も考えなかった。

僕は戸口の陰で息を殺した。セルヴィーニャンが僕の袖をつかんだ。帰ろう、というように、小さく引っぱった。僕は動かなかった。動けなかった。

そのとき、輪の中から、小柄な影が進み出た。

ウェレラさんだった。

ウェレラさんは太った男の正面に立った。背の高さは、男の胸までしかない。それでも、ウェレラさんは顎を上げて、男をまっすぐ見上げた。松明の明かりが、肩掛けの縁の模様を浮かび上がらせていた。

「ésa fúnelos.」

あの夜と、同じ言葉だった。

倉の中が、しんと静まった。松明の燃える音だけが、ぱちぱちと聞こえた。

ウェレラさんは続けて言った。ゆっくりと、一語一語、区切るように。

「méirimor lúsan élei.」

lúsan が聞こえた。lúsa は粥だ。セルヴィーニャンに教わった。最後に n が付いている。

ウェレラさんは言い終えると、自分の胸を拳でとん、と叩いた。それから、隣に立っていたヒルヴァンを見上げた。

ヒルヴァンは腕を組んで、床を見ていた。長いあいだ、床を見ていた。顎の筋肉が、何かを噛みしめるように、何度か動いた。

それから、小さく、ひとつ、うなずいた。

袖をつかんでいたセルヴィーニャンの手から、ふっと力が抜けた。長い息を吐く音がした。見ると、セルヴィーニャンは僕の顔を見ていた。笑っているのでも、泣いているのでもない、僕には読めない顔だった。

太った男が、何か言い返そうとして口を開いた。でも、ウェレラさんの顔を見て口を閉じた。輪の中の何人かが顔を見合わせて、肩をすくめた。

白いひげの老人が、板の上の石をいくつか動かした。何を動かしたのかは、遠すぎて見えなかった。

寄り合いは、それで終わったらしかった。人々がばらばらと戸口のほうへ歩きだした。

セルヴィーニャンが僕の腕をつかんだ。急げ、と目が言っていた。

僕たちは、来た道を、来たときよりずっと速く戻った。石垣を乗り越えて、家と家の隙間を抜けて。もう、空は真っ暗だった。白い月は、まだ昇っていなかった。

◆

家に飛びこむと、セルヴィーニャンは二人分の上着を壁の釘に掛け直して、炉のそばに座り、灰をかき立てはじめた。何事もなかったような顔だった。僕もその隣に座った。息が、まだ上がっていた。

僕は炉の火を見ながら、倉で何度も聞いた言葉を口に出してみた。自分の胸を指さして。

「dulána?」

セルヴィーニャンの手が止まった。

灰をかく棒を持ったまま、僕の顔を見た。それから、眉を寄せて、首を横に振った。強く、二度。

「na. híro.」

na。最初の夜、ヒルヴァンが太った男に向かって言った、あの短い一言だ。違う、という意味だと、あのときも思った。

セルヴィーニャンはそれだけ言うと、また灰をかきはじめた。乱暴な手つきだった。灰が舞い上がって、二人とも咳きこんだ。僕はそれ以上、何も聞けなかった。

少しして、ウェレラさんとヒルヴァンが帰ってきた。

ヒルヴァンは戸口で雪を払いながら、炉のそばの僕たちを見た。何も言わなかった。ウェレラさんは模様の肩掛けを外して、丁寧にたたみ、箱の中にしまった。

夕食は、いつもの粥だった。

ウェレラさんが鍋から椀によそっていく。ヒルヴァンの椀。セルヴィーニャンの椀。ウェレラさん自身の椀。それから、僕の椀。

僕は鍋の中を見た。

鍋の底が見えていた。

この家で初めて粥を食べた朝は、こうじゃなかった。二杯目をもらっても、鍋にはまだたっぷり残っていた。それが今は、四つの椀によそったら、それでもう底が見える。木の杓子が鍋の底を擦る、からからという音がした。

ウェレラさんの椀を見た。ほかの三つの椀より、少しだけ少なかった。

僕の椀が、いちばん多かった。

僕は椀を持ったまま、動けなくなった。

さっきの倉での、ウェレラさんの言葉。粥、という言葉。それから、自分の胸を叩いた、あの仕草。ヒルヴァンが、長いあいだ床を見てから、うなずいたこと。

町の倉の壺からは、僕の分は出ない。

だから、この家が、自分の家の分から、僕に食べさせる。

ウェレラさんはそう言ったのだ。たぶん。町の人たちの前で。

僕は椀をウェレラさんのほうへ押し戻した。そして、ウェレラさんがいつも僕に言う言葉を、そのまま返した。

「mán食べろ.」

ウェレラさんの眉が、ぴくりと上がった。言葉が通じたのはわかった。でも、ウェレラさんは首を振った。椀をまた僕のほうへ押し戻した。

「mán.食べろ」

僕はもう一度、椀を押し戻した。今度は、ウェレラさんの椀の横に置いて、僕の椀からウェレラさんの椀へ、粥を半分移そうとした。

その手を、横からセルヴィーニャンがつかんだ。

セルヴィーニャンは怒った顔をしていた。僕の手から匙を取り上げて、椀を僕の胸に押しつけた。

「mán!食べろ!」

強い声だった。

炉の向こうで、ヒルヴァンがふんと鼻を鳴らした。それから、自分の椀を持って、黙って粥をすすりはじめた。こちらを見なかった。

僕は椀を抱えて、うつむいた。

粥はいつもと同じ、薄い塩味がした。

でも、いつもより、ずっと、のどを通りにくかった。それでも、残さずに食べた。残すはずがなかった。

◆

食べ終わると、セルヴィーニャンが空の椀を集めて、桶の水で洗いはじめた。僕も手伝った。桶の水は、指が痛くなるほど冷たかった。

セルヴィーニャンは椀を洗いながら、ときどき、ひとりごとみたいに何かつぶやいていた。僕に話しかけているのか、そうでないのか、わからない。でも、つぶやくたびに、ちらりと僕のほうを見るので、たぶん、聞かせようとしているのだ。この五日、セルヴィーニャンはずっとそうしてくれていた。

この数日、何度も聞いた言葉を思い返した。

薪を運ぶとき、僕が抱えようとした束を、セルヴィーニャンが横から取った。

「kráilim.」

昼間、粥を食べながら、セルヴィーニャンは自分の椀を指さして言った。

「mánim.」

水がめから水を汲んで飲むときも、言った。

「nílim.」

僕は椀を拭く手を止めた。

kráilim持つ. mánim食べる. nílim飲む.

どれも、終わりが同じだ。-im。

そして、どれも、セルヴィーニャン自身が何かをしているときに言った。セルヴィーニャン自身が、持つ。セルヴィーニャン自身が、食べる。セルヴィーニャン自身が、飲む。

僕に向かって言うときは、kráil、mán、níl。

セルヴィーニャンが自分のことを言うときは、kráilim、mánim、nílim。

-im が付くと、「私が」になる。

……もしかして。

僕は胸ポケットからレシートを出した。最初に書いた単語の並びを、目で追った。

þélim 〜です?(名前の前に付ける)

þé, lim。いや。þél, im。

「私は、þél する」だ。þél は、たぶん、名乗るとか、名を言うとか、そういう意味だ。

そうだとしたら。最初の夜、ウェレラさんが僕にたずねた、þéles という言葉。あれは、þél の別の形なんじゃないか。僕に向かってたずねていたから、-im じゃなくて -es だったのだ。-es は、「あなたが」なのかもしれない。あなたは、何と、名乗る。

頭の中で、ばらばらだった音が、かちりと噛み合った。五日かけて拾い集めた小石が、急に一本の線の上に並んだみたいだった。

確かめずには、いられなかった。

僕は炉のそばに積んであった薪の束を、両手で抱え上げた。そして、セルヴィーニャンの顔を見て言った。

「kráilim.」

セルヴィーニャンが、何度も、大きくうなずいた。そして、僕を指さして、はっきりと言った。

「kráiles!あなたが持つ!」

-es。

やっぱり、そうだ。

セルヴィーニャンは立ち上がって、もう一つの薪の束を抱え上げた。そして、胸を張って言った。

「kráilim!私が持つ!」

二人で、薪の束を抱えたまま、顔を見合わせた。セルヴィーニャンが笑いだした。僕も笑った。ウェレラさんが、寝床の中から、うるさい、というように何か言った。それでも、二人ともなかなか笑いやめなかった。炉の向こうで、ヒルヴァンが寝返りを打って、こちらに背中を向けた。

◆

その日の夜、僕はレシートの裏の、残り少ない余白に、小さな字で書きこんだ。シャーペンの芯は、書くたびに少しずつ短くなっていく。

ín dáu téir fáir lím sóur nél ánþa réum ombár 一〜十  ombár ín=十一(十と一) dáumbar=二十(dáu+ombár が縮まる)  → 十進法!

kráil(持て) → kráilim(私が持つ)  mán(食べろ) → mánim(私が食べる)  níl(飲め) → nílim(私が飲む)  → -im=「私が」?  → þélim=私は名乗る? þéles=あなたは名乗る?  → kráilim(私が持つ)/kráiles(あなたが持つ) -es=「あなたが」!  na=違う、いいえ

それから、少し迷って、最後にもう一行書いた。

この家は、自分たちの分から、僕に食べさせている。

書いてから、その一行をしばらく見つめた。

ネタ帳に書いてあったことは、まだ何ひとつ役に立っていない。滑車の絵は、雪の中に踏み消された。言葉は、僕が覚えたつもりになると、そのたびに笑われる。この家の人たちに僕が返せるものは、今のところ、薪と水を運ぶことくらいしかない。

それでも。

僕はレシートを胸ポケットにしまって、炉の火を見た。

ウェレラさんが、炉の向こうで、もう寝床に横になっていた。いちばん少ない粥を食べたウェレラさんが。毛皮の端から、白い髪がのぞいていた。

壁の隙間の薪の切れ端に、明日、六本目の傷をつける。その傷の一本一本が、この家の粥でできている。

この家の人たちに、返さなきゃいけないものがある。

それだけは、言葉がわからなくても、はっきりわかった。

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