第4話 軽く下りますように

あれから、僕はセルヴィーニャンを名前で呼ぶのをやめた。

呼び捨てにしても笑われる。n を付けても笑われる。だったら、呼ばなければいい。

かわりに、最初の日にヒルヴァンが崖の上から僕を呼んだ言葉を使うことにした。

「té!」

あの日、ヒルヴァンは「hóu! té!」と叫んで、僕を呼んだ。hóu はおそらく「おーい」みたいな呼びかけで、té は僕のことを指していたのだろう。ヒルヴァンは崖の上から、離れたところにいる僕を「そこの人」といった感じで呼んでいたのだ。

セルヴィーニャンは、初めて「té」と呼ばれたとき、ぱちぱちと瞬きをした。それから、口をとがらせた。何か不満があるらしい。でも、笑いはしなかった。selvíñan と呼んだときよりは、ずっとましな反応だった。

なので、僕はしばらくそれで通すことにした。té と呼ぶたびに、セルヴィーニャンの口は少しとがった。返事はしてくれるから、たぶん、通じてはいる。嫌がられている気はした。でも、名前で呼べばまた間違える。ほかの呼び方を覚えるまでは、と自分に言い訳した。

◆

その日、セルヴィーニャンは、朝の水汲みから戻ると、僕の袖を引っぱった。

ついてこい、という顔をしていた。

家を出て、町を抜けて、崖のほうへ歩いていく。綱場とは違う方角だった。空は晴れていて、雪の表面が日を照り返してまぶしかった。町の外れの、崩れた石垣が続くあたりを過ぎると道は細くなって、やがて岩のあいだを縫う小道になった。

小道は、崖の縁へ向かって下っていた。

さらさらという水の音が、だんだん大きくなってきた。岩のあいだから、白い糸のような滝が見えた。崖の縁から落ちたばかりの水が、すぐ下で白く砕けている。あの、岩棚から見上げた滝だ。今は、それを横から見ている。滝の向こうには、切れ目をはさんで、向かいの崖の縁が見えた。ねじれた低い松が、あの朝と同じように、崖の外へ身を乗り出していた。

僕は思わず足を止めた。セルヴィーニャンは振り返って、大丈夫、というように手を振った。そして、慣れた足どりで先へ進んでいく。僕は岩に手をつきながら、おそるおそるあとを追った。岩の表面は、滝のしぶきが凍って、うっすらとガラスを張ったようになっていた。

足もとで、小石が崖の外へ転がり落ちた。セルヴィーニャンが、さっと振り返った。

「mé brúum!」

聞き覚えのある言葉だった。綱で吊られたとき、崖の上からヒルヴァンが叫んだ言葉だ。あのときは、動くな、だと思った。

僕はその場で、ぴたりと動きを止めた。

セルヴィーニャンは、あきれた顔をした。それから手招きした。

「tór!来い!」

動くなと言っておいて、来い?

僕が首をかしげたまま一歩踏み出すと、セルヴィーニャンは、僕の足もとの崩れかけた岩を指さして、それから、崖の下へ、すとんと手を落としてみせた。

ああ、と思った。

mé brúum は、動くな、じゃない。こけるな、とか、気をつけろ、とか、そういった意味なのだ。

あの夜、ヒルヴァンは、吊られた僕に「落ちるなよ」と言ったのだ。

ずいぶん長いあいだ、思い違いをしていたことになる。でも、あのときの僕にとっては、どちらでも同じだった。動かなければ、落ちないのだから。

僕はうなずいて、声に出して返した。

「mé brúum.」

自分に言い聞かせるつもりだった。セルヴィーニャンは、うん、とうなずいて、また前を向いた。

少し下ったところで、小道は、崖の縁のすぐ手前の、平らな場所に出た。

そこに、石が立っていた。

僕の胸くらいの高さの、灰色の石だった。四角く切り出して、地面に立ててある。こちらを向いた面が平らに磨かれていて、そこに何かが刻まれていた。

線だ。いや、絵か。

輪っかから尾が跳ね上がったような形。横に引いて、端で下へすとんと折れる線。上に点を載せた、細い縦の棒。それが何十も、横一列に並んで刻まれている。その下に、もう一列。

krailesa funelara farona te duliþo funela.

風雨にさらされて、角が丸くなっていた。ところどころ、苔がこびりついて、線が読めなくなっている。石の根元には、雪の下から枯れた草の穂がのぞいていた。誰かが手入れをしている様子はなかった。

石の向こうで、崖の縁の岩が、段になって下へ続いていた。最初の三段か四段は、はっきりと人の手で削った段だ。その先は崩れて、急な斜面と、空になっていた。

道の、入り口なのだ。今はもう、どこへも行かない入り口。

セルヴィーニャンが、石の表面にそっと手を当てた。

「kéumo sóこれは石だ.」

それから、石に刻まれた形の一つを、指でなぞった。

「lisá.」

僕は石の前に立って、刻まれた形を端から順に見ていった。

文字だ。同じ形が、何度も繰り返し出てくる。輪っかから尾が跳ね上がった形は、この一列だけで七回出てくる。下へ折れる線は三回。全部ばらばらの絵なら、こんなに同じ形が繰り返されるはずがない。

この世界にも、文字がある。

これは使える、と思った。字が読めるようになれば、いちいち誰かに身振りで訊かなくてすむ。

僕は石の前にしゃがみこんで、いちばん上の列を指さした。それから、セルヴィーニャンの顔を見た。

「kéumo sóこれは石だ. pósoこれは何?」

何と書いているのか、と聞いたつもりだ。それが通じたのか、セルヴィーニャンは石の前にしゃがんで、指で一つずつ形を追いながら、ゆっくりと声に出しはじめた。

「kk…… rr…… aa…… ii…… ll……」

一つの形を指すたびに、一つの音がセルヴィーニャンの口から出てくる。一つの形に、一つの音が対応しているらしい。アルファベットみたいな仕組みなのかもしれない。

セルヴィーニャンは、最初の列を最後まで、つっかえつっかえ読み上げた。字をたどる指が、苔のところで止まって、爪で苔を少しこそいでまた進んだ。

「krailesakrailesa…… funelarafunelara…… faronafarona…… tete…… duliþoduliþo…… funelafunela.」

それから首をかしげて、もう一度最初から読み直した。より速く、なめらかに。

「krailésa funelár fáron te dulíþo fúnel綱.」

僕は首をかしげた。一回目、セルヴィーニャンは funelara、farona、funela と読んだ。二回目は、funelár、fáron、fúnel と読んだ。最後の a が消えている。

セルヴィーニャンは、僕が首をかしげているのに気づくと、照れたように笑った。それから石の上の、funela と読んだところの、最後の字を指さした。輪っかから尾が跳ね上がった形。aaだ。

セルヴィーニャンは、その字を指でとんとんと叩いて、それから首を横に振った。

これは、書いてあるけど、読まない。そう言っている。

英語の、knife の k みたいなものだ。書いてあるのに、発音しない字。昔は発音していたのが、綴りにだけ残ったのだろうか。

言葉の終わりの a は、読まないことがある。でも、全部じゃない。krailésa の最後の a は、二回目も読んでいた。

……言語というのは、なんでこうも面倒くさいんだろう?

ところで、fúnel綱 という単語を、僕は知っている。

ウェレラさんが、最初の日と、寄り合いの夜に、二度言った言葉を思い出した。ésa fúnelos。あれにも、fúnel の響きが入っていた。

そして、この石に書いてあった funelár にも、同じ響きがあった。

これらは、fúnel綱 に何かがついた形で、綱に関連する何かを指しているのだろう。sing歌 に -er がつくと singer歌う人 になるような変化かもしれない。

この石碑も、ウェレラさんの言葉も、綱に関連する何かについて言っている。

でも、それが何なのかは、まだわからなかった。

◆

セルヴィーニャンが立ち上がって、小枝を一本拾った。

石のそばの、平らに積もった雪の上に、小枝の先で何か書きはじめた。

一つ、二つ、三つ。石に刻まれていたのと同じ形が、雪の上に並んでいく。一つ書くごとに小枝を雪から離して、字と字のあいだを空ける。セルヴィーニャンは書きながら、ときどき舌の先を唇のあいだからのぞかせていた。

書きながら、小さな声で節をつけて歌っていた。

「áura selvá gléin, an élvaran té.」

あの歌だ。

この家で目を覚ました日の夜から、セルヴィーニャンが毎晩のように炉の前で口ずさんでいる、子守歌みたいな歌。その一節だ。

aura selva gleina, anelvaran te.

僕は雪の上の字と、歌の音を、頭の中で並べた。

áura。最初の四つの字。さっき石の上で、セルヴィーニャンは、輪っかから尾が跳ね上がった形を「aa」と読んだ。次の字は、ωみたいな、波が二つの形。uu、だろうか。それから、端で下へ折れる線。これは石の上で「rr」と読んでいた形だ。最後に、また aa。

auraa u r a。áura。

合っている。

僕は雪の上の字を、一つずつ指でなぞりながら、歌の音を当てはめていった。セルヴィーニャンは隣で、僕の指が字に触れるたびに、その音を言った。合っていると、うなずいた。間違えると、首を振って、正しい音を言い直した。雪に触れた指先が、だんだん赤くなって、感覚がなくなっていった。それでも、やめる気にはならなかった。

一行目が終わるころには、十いくつかの字の音が、わかっていた。

aauurrsseellvvggiinntt

ee は、しずくを逆さにしたような形。ss は、くるっと巻いた渦。ll は、横に寝かせた波。rr は、横に引いて、端で下へすとんと折れる。

ll と rr も、別の字だった。僕は r と l の発音は聞き分けられる自信がない。fúnel の l も、áura の r も、耳では同じに聞こえる。レシートに書きためた言葉は、どれがどっちなのか、もう一度確かめなおさないといけない。

僕はセルヴィーニャンの手から小枝を借りた。

書けるかどうか、試してみたかった。覚えたばかりの字で、知っている言葉を。

最初に思いついたのは、目の前の、この子の名前だった。

selvina

書き終えて小枝を返すと、セルヴィーニャンは雪の上の字をじっと見た。

それから、くすっと笑って、僕の書いた nn の上に、小枝で小さな波を一つ書き足した。

selviña

「selvíña.」

セルヴィーニャンは、小さな声で、自分の字を読んだ。それから、慌てたように、ちらりとまわりを見た。誰もいないのを確かめるみたいに。その仕草が、少し引っかかった。自分の名前を読んだだけなのに。

ññ。n の上に波を載せた字。ニャ、の音は、n とは別の字だったのだ。

僕はうなずいて、自分でももう一度、雪に書いた。今度は波を忘れずに。

◆

僕が少し字を覚えたのを見て、セルヴィーニャンは満足げな顔をした。それから、さっきの一行の横の、まだ踏まれていない雪に、小枝を当てた。

今度は、小枝を雪から離さなかった。最初に、右から左へ、すっと一本横に線を引いた。線の左の端がくるりと上に巻き上がって、そのまま最初の字になった。そこから先は右へ向かって、字と字が細い線でつながり、ひと息に流れていく。小枝の先が、雪の上をほとんど止まらずに走った。

aura selva gleina, anelvaran te.

同じ歌だ。セルヴィーニャンが、さっきと同じ節で口ずさんでいたから、わかる。

でも、さっきの一行と並べると、まるで別の字に見えた。最初の aa だけが大きくて、長い尾を引いている。そのあとの字はつながって、傾いて、どこからどこまでが一つの字なのかわからない。rr の、下へ折れる線は、次の字へ流れこむ細い線になっていた。

漢字の、楷書と草書みたいなものだ。

さっきまでの得意げな顔とは違って、書き終えたセルヴィーニャンは、自分の字を少し離れて眺め、尾の長さが気に入らなかったのか、小枝の先でちょっと直した。こういうところは、几帳面なのだ。

セルヴィーニャンは、二つの行を小枝で順に指した。そして、さっきの、離して書いたほうを指して、続いて僕の胸を指した。

まず、こっちを覚えろ。そう言われたのだと思った。僕はうなずいた。草書から覚える人はいない。言われるまでもなかった。

それから、セルヴィーニャンはもう一つ短い言葉を書いた。

四つの字だった。

hh、ii、rr、oo。

ヒロ。

僕の名前だ。

自分の名前を、知らない字で書かれるのは、不思議な気分だった。自分のものではないみたいだった。

セルヴィーニャンは書き終えると、小枝の先を、その四つの字の下に当てた。そして、少し迷うような顔をしてから、字の下に、くねくねと波打つ線を一本引いた。

hiro

僕はその波線を指さして、セルヴィーニャンの顔を見た。これは何だ。

セルヴィーニャンは肩をすくめた。説明しようとして、言葉が見つからない、という顔だった。それから、波線の端を小枝の先でとんとんと叩いた。そして、僕の名前と崖の下のほうを、交互に指さした。

崖の下。

あの日、岩棚から見下ろした、ずっと下の、白いもやの向こうに広がっていた、平たく光るもの。

僕の名前と崖の下に、何の関係があるんだ。

セルヴィーニャンは、それ以上は何も教えてくれなかった。

雪の上には、セルヴィーニャンの書いた二つの歌と、僕の書いた二つの名前と、波線を添えられた hiro が残った。帰り道、僕は何度か振り返った。日が当たって、雪の表面が少しずつ溶けはじめていた。明日には、全部消えているだろう。

◆

家に帰ると、僕は炉の脇に冷えた灰をかき出して、平らにならした。

灰の上に指で、今日覚えた字を書いた。

aauurrsseellvvggiinnññttkkffhhoo

十六の字。セルヴィーニャンに教わった音を、一つずつ口に出しながら書いた。灰は、指でなぞると、ほんのりあたたかかった。間違えたら、手のひらでならせば消える。雪より、ずっといい。

レシートの裏は、もういっぱいだった。シャーペンの芯も残り少ない。これからは、灰と指で練習するしかない。

そういえば、この家で、紙を一枚も見たことがない。

炉、寝床、鍋と椀、壁の上着、奥の箱と縄の束と機織り機。本は一冊もない。帳面も、筆のようなものも、墨のようなものもない。この世界には、紙がないのだろうか。それとも、この家にはないだけなのか。字を知っている人たちが、ふだん何に字を書いているのか、僕にはまだ見当がつかなかった。

ウェレラさんが、灰の上の字をのぞきこんだ。そして、ほう、というように眉を上げた。何か言いかけて、やめた。そのかわりに、僕の頭をぽんぽんと二回叩いた。

◆

その夜、夕食の粥を食べていると、客が来た。

寄り合いの日に、倉で数え板を動かしていた、白いひげの老人だった。

近くで見ると、老人の指は、関節ごとに瘤のように膨らんでいた。戸口で毛皮の帽子を取ると、薄くなった白い髪が、静電気でふわりと立った。老人は杖代わりの棒を戸口に立てかけ、ウェレラさんに何か言って、ゆっくりと炉のそばに腰を下ろした。一段高い座の、ウェレラさんの隣だった。

老人はウェレラさんと古い知り合いらしかった。ウェレラさんは、自分の椀から、老人に粥を分けた。

僕は、その椀を見ていた。寄り合いの夜から、ウェレラさんの椀は、ずっといちばん少ない。その中から、また分けている。

二人は低い声で、長いあいだ話しこんでいた。ときどき、ちらりと僕のほうを見た。

ヒルヴァンは炉の向こうで、黙って弓の弦を張り替えていた。

夜が更けると、老人は炉の火を見つめながら、ぽつりと何か言った。ウェレラさんがうなずいた。

そして、老人が歌いはじめた。

しわがれた、低い声だった。ゆっくりとした、足を踏みしめるような拍子の歌だった。一歩、一歩、重いものを背負って、坂を下りていく人の足どりみたいな。

「ín,一 glünóra. dulénde fláinin.」

「dáu,二 krambóra. dulénde fláinin.」

「téir,三 sirnóra. dulénde fláinin.」

数を数えている歌だ。数ごとに、何かの名前のようなものが歌われて、そのあとに同じ決まり文句が続く。dulénde fláinin。

一つ目の名前は、glünóra。二つ目は、krambóra。三つ目は、sirnóra。どれも終わりが -óra だ。

老人は歌いながら、ときどき片手を下へ、ゆっくりと動かした。一つ数えるごとに、手を一段下げる。階段を下りていくみたいに。

何かを数えながら、下りていく歌なのだと思った。

セルヴィーニャンは、寝床の上で膝を抱えて、唇だけを動かしていた。歌を知っているのだ。ヒルヴァンの手も、いつのまにか弦の上で止まっていた。

「fáir,四 dulóra.」

そこで、老人の声が止まった。

老人は炉の火を見つめたまま、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「brúumo.」

ウェレラさんが目を閉じた。

老人は、もう一度口を開いた。

「lím,五 fleuróra.」

「brúumo.」

老人は、それきり歌わなかった。

炉の火が、ぱちぱちと鳴った。誰も何も言わなかった。ヒルヴァンが、止めていた手を動かして、弦の端を結び直した。結び目を、必要以上に強く引いた。

僕はセルヴィーニャンのほうを見た。

セルヴィーニャンは僕の視線に気づくと、身を乗り出して、小さな声で何か言った。それから、身振りで説明しはじめた。

まず、壁の向こう、崖のほうを指さした。それから両手を水平に、上下に重ねるようにして、一段、二段、三段、と下げていった。

それから、四段目と五段目の手を、ぱっと離して、下へ落とした。

brúumo落ちる。

崖のほうで、段が、上から下へ。四つ目と五つ目が、落ちた。

今日、石の向こうに見た段を思い出した。三段か四段、人の手で削った段があって、その先は崩れて空になっていた。それから、あの日の岩棚。あそこも、右の段は上で崩れて、左の段は下で途切れていた。

崖を下りる道の話なのかもしれない。老人の手が一段ずつ下がっていったのも、それなら説明がつく。でも、数えているのが段なのか、道の途中の何かなのか、そこまではわからなかった。

そのとき、ウェレラさんが目を開けた。

ウェレラさんは僕の顔をじっと見た。それから、僕を指さして、その手をセルヴィーニャンの重ねた手のいちばん上の段へ、そっと置いた。

「glünóra.」

歌に出てきた、一つ目の名前だった。

glünó氷。セルヴィーニャンが軒先からつららをもいできて、教えてくれた言葉だ。僕はあそこで、つららをかじって喉の渇きをしのいだ。あの場所こそが、glünóra氷の岩棚? だったのかもしれない。

ぴったりの名前だと思った。

◆

老人は帰りぎわ、戸口で振り返って、僕を見た。

しわだらけの顔の中で、目だけが炉の火を映して光っていた。

老人は何も言わなかった。ただ、僕に向かって小さくうなずいた。そして、棒をついて、夜の中へ出ていった。雪を踏む音が、ゆっくりと遠ざかっていった。

僕は戸口に立って、崖のほうの暗がりを見た。

あの石の向こうの段も、僕のいた棚も、昔は一本の道だったのかもしれない。たくさんの人が、あの歌を歌いながら崖を上り下りしていたのかもしれない。

だとしたら、この町の家が大きすぎることにも、倉が広すぎることにも、説明がつく。人と荷物がここを通らなくなって、町だけが小さくなったのだ。

全部、僕の想像だ。確かめる言葉は、まだない。でも、老人が歌をやめたときの、ウェレラさんの閉じた目は、想像ではなかった。

戸を閉めて、炉のそばに戻った。灰の上の字を見下ろした。それから、指で、新しく字を書いた。

hiro

読める字は増えた。でも、この家に返せるものは、まだ少ない。この世界について、ここの暮らしについて、言葉について、知らないことばかりだ。

いつか、言わないといけない。僕は、こことは違う世界から来たのだと。

でも今の僕には、まだ、自分のことを話す言葉すらない。

そのときまでには、ウェレラさんの「ésa fúnelos」の意味も、あの石に書いてあることも、わかるようになっている。

なっていたい。

と思った。

――第一部 綱の荷 了

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