第5話 この服は誰も織っていない

何かが崖を上ってきた。

石碑を見に行ってからも、水汲みと薪運びの日が続いた。夜は炉の脇の灰に、覚えた字を書いた。最初に気づいたのは、そんな朝の水汲みのときだった。井戸へ向かう道の先が、白く煙っていた。煙だと思った。どこかの家が燃えているのかと思った。

だが、焦げたにおいはしなかった。かわりに湿ったにおいがした。雨の降る前の土のにおいに似ていた。この町に来てから、一度もかいだことのないにおいだった。

白いものは崖の縁のほうから、ゆっくりと町へ流れこんできていた。地面を這うように、低く、重たく。石垣を乗り越えて、道を埋めて、家々の足もとにたまっていく。

霧だ。

あの日、岩棚から見下ろした崖の下には、白いもやが広がっていた。その白いものが、崖を這い上がってここまで来たのだ。

セルヴィーニャンが、桶を持ったまま崖のほうを見て、何かつぶやいた。いつものはしゃいだ声ではなかった。

次の朝、戸口を開けると、家の前に白い壁が立っていた。

ヒルヴァンが薪を取りに出ていった。二歩で背中がかすんで、三歩で見えなくなった。

僕は戸口から身を乗り出して、呼ぼうとした。

「hílv――」

後ろから、乾いた手が僕の口をふさいだ。

ウェレラさんだった。僕の口から手を離さないまま、霧の向こうを指さして、首を何度も横に振った。目が、怖いくらい真剣だった。

何がいけないのかは、わからなかった。名前を呼んではいけないのか、霧に向かって大声を出してはいけないのか。

ウェレラさんが手を離したのは、霧の中から、薪を抱えたヒルヴァンが戻ってきてからだった。

◆

霧はその日から晴れなかった。

朝も昼も、町は白い中に沈んでいた。人の背丈くらいの高さまでが、いちばん濃い。井戸の前に立つと、向かいの家の戸口がもう見えない。屋根の上にいくと霧は少し薄くて、空がぼんやり明るいのはわかったけれど、太陽の形はぼんやりとしか見えない。夜には、星がひとつも見えなかった。

霧は音も吸いこんだ。井戸の縄のきしみも、誰かの話し声も、少し離れると綿でくるんだようにくぐもって、どこから聞こえてくるのかわからなくなる。外を歩くと、毛皮の上着の毛の先に、細かい水の粒がびっしりついた。まつげにもついた。瞬きをすると、冷たいものが目に入った。

家の中も湿っていた。炉の煙は、天井の穴からうまく抜けなくなって、梁の下に重たく溜まった。寝床の毛皮は、朝になるとしっとりと冷たかった。

町の人たちは、目に見えて落ち着かなくなった。井戸端の女たちは口数が少なくなった。夜、炉の前で、ウェレラさんはときどき天井を見上げて、小さく何か唱えた。

ヒルヴァンは、毎晩日が暮れると一度家を出ていって、しばらくして戻ってきた。どこへ行くのかは、わからなかった。

一度だけ、夕方の水汲みの帰りに見かけたことがある。町の北の外れ、道が霧の中へ消えていくところに、ヒルヴァンが立っていた。弓も持たず、腕を組んで、道の先の白いところを、じっと見ていた。僕に気づくと、何でもないような顔をして、反対のほうへ歩いていった。

地面の雪が溶けはじめて、道はぬかるみになった。

スニーカーは、二日でぐしょぐしょになった。泥は靴紐の穴から染みこんで、靴下まで冷たく濡らす。夜、炉のそばで乾かしても、朝にはまだ湿っていて、足を入れると、ぐしゅっと鳴った。指の先が、一日じゅうかじかんでいた。

五日に一度のサウナの日が来ても、町の外れの小屋から煙は上がらなかった。次の五日目も上がらなかった。霧のあいだは焚かないらしい。僕にとってはそれが何よりも残念だった。かわりに、炉で温めた湯を桶に取って、布を浸して体を拭いた。湯はすぐにぬるくなった。拭いたそばから、湿った空気がまた肌にまとわりついた。

体を拭きながら顎をなでると、口のまわりに細い髭がいつの間にか伸びていた。向こうにいたころは、ときどきカミソリを当てていた。ここには、カミソリなんてない。伸びるにまかせるしかなかった。

薪の切れ端の刻み目は、三十本を超えていた。僕が落ちてきてから、ひと月と少し。冬が終わったのだろうか。でも、あたたかくはならない。湿っていて、冷たい。冬よりも骨にしみる寒さだった。

◆

その夕方、霧の向こうから足音が聞こえた。

セルヴィーニャンが、真っ先に顔を上げた。機の前に座って糸を巻いていた手を止めて、戸口のほうへ耳をすませた。

それから、巻きかけの糸玉を放り出して、外へ飛び出していった。床に落ちた糸玉が、ころころと炉のほうへ転がった。

僕は戸口まで行って、外をのぞいた。

霧の中から、人の影が浮かび上がってきた。大きな荷を背負った、背の高い影だった。荷を支える帯を額にかけて、少し前かがみに歩いてくる。その影のすぐ後ろに、もう一つ、大きな影がついてきていた。ヒルヴァンだった。

影に、セルヴィーニャンがぶつかるようにして抱きついた。

影は、荷の重さによろけながら、セルヴィーニャンを片腕で受け止めて、笑った。女の人の声だった。

「hóinsim.ただいま」

なんと言っているのかは、わからなくてもわかった。

「hóinses!おかえり」

セルヴィーニャンが、顔をうずめたまま言った。いつもより、ずっと幼い声だった。

◆

女の人は家の中に入ってくると、額の帯を外して、背中の荷を下ろした。帯の当たっていた額に、赤い跡がくっきりと残っていた。ヒルヴァンが無言でその荷を受け取って、壁ぎわに運んだ。何も言わなかった。女の人のほうも見なかった。

毎晩、日が暮れるとヒルヴァンが出ていったのは、これだったのだ、と思った。北の外れの、霧の中に消えていく道。あそこで、彼女が帰るのを待っていたのだ。

ウェレラさんが女の人の両手を取って、何か言った。女の人はウェレラさんの肩に額を当てた。しばらく、そのまま動かなかった。

この家には寝床が五つあって、今まで、僕を除いて三人しかいなかった。織りかけのまま止まっていた機。そして、今のセルヴィーニャンの喜びよう。

たぶん、セルヴィーニャンの母親だ。

年は、ヒルヴァンと同じくらいだろうか。背が高くて、目元の涼やかな感じがセルヴィーニャンとよく似ていた。編んだ髪を首の後ろで丸く巻いて、骨の留め具で留めていた。留め具には、色のついた糸が巻いてあった。長靴のような革の履き物は、膝の下まで泥で固まっていた。何日も、ぬかるんだ道を歩いてきたのだろう。

その目が、僕のところで止まった。

「pá ésa?」

女の人は、ウェレラさんに向かって、短く言った。

崖の上から最初に呼びかけられたときの言葉に、少し似ている気がした。少なくとも、僕のことをたずねているのはわかった。誰だ、とか、何だ、とかだ。

ウェレラさんが答えた。

「ésa fúnelos.」

三度目だ。最初の夜の崖の上で、町の人たちの前で、寄り合いで。そして今、女の人の前で。ウェレラさんは、僕のことを人に説明するとき、いつもこの言葉を使う。

女の人はそれを聞いて、怪訝そうに眉を動かして、僕の前まで歩いてきた。そして、僕を、頭のてっぺんから足の先まで、ゆっくりと見た。

僕を見る町の人たちの目つきとは、すこし違った。何というか、品物を見る目のようだった。大きさを測って、目方を量って、どれくらいもつか、どこがほつれているかを確かめる目。

それから、女の人は自分の胸に手を当てた。

「þélim私は名乗る fleurélan.」

僕も胸に手を当てた。

「þélim híro私は尋と名乗る.」

女の人は、口の中で híro と一度くり返した。その音を確かめるように、もう一度だけ、口の中で転がした。町の人たちのように笑いはしなかった。

僕は、もう一つ言ってみた。さっきセルヴィーニャンが彼女に言った言葉を。

「hóinsesおかえり.」

女の人の眉が、すっと上がった。それから、ウェレラさんのほうを見た。ウェレラさんは肩をすくめて、小さく笑った。

女の人は僕に向き直って、ほんのわずかだけ、口の端を上げた。

「fláinim.ありがとう」

ヒルヴァンが、壁ぎわから振り返って、女の人を呼んだ。

「fleuréla.」

n が、ない。確かに fleurélan と名乗ったはずなのに。

セルヴィーニャンが名乗ったときは、selvíñan。ウェレラさんが呼ぶときは、selvíña。母親が名乗ったときは、fleurélan。ヒルヴァンが呼ぶときは、fleuréla。

名乗るときと、呼ばれるときで、名前が違う? そんなことがあるのだろうか。

フレウレランは――と、とりあえず頭の中で呼んでおくことにした――炉のそばに荷を広げた。中から出てきたのは、ほとんどが布だった。きっちりと畳まれた、厚い毛織りの布。灰色のもの、生成りのもの、それからひとつだけ、生成りの地の縁に、黄色い糸を細く織りこんだもの。布の束からは、この家とは違う煙のにおいがした。

フレウレランは、その縁の黄色いものを取り上げて、セルヴィーニャンに差し出した。

「kráil持て rásan.」

セルヴィーニャンはそれを受け取ると、両手で広げて、声を上げた。畳まれていたときは布の束かと思ったが、広げると袖がついていた。rása は、服のことらしい。そういえば、ヒルヴァンが毛皮の上着を投げてよこしたときにも、こんな音が混じっていた気がする。

「rása sé!これ」

rása。n が、ない。

同じ上着なのに、「持て」の後ろに来たときだけ、n がつく。前にも、同じことがあった。粥は lúsa なのに、寄り合いの夜、ウェレラさんが粥を食べさせると言ったときは、lúsan だった。

何かを、食べさせる。  何かを、持つ。  何かを、名乗る。

n は、「を」だ。

「粥を」「服を」「フレウレラを」。名乗るときに名前の後ろに n がつくのは、「フレウレラを名乗る」と言っているからだ。

þélim selvíñan私はセルヴィーニャを名乗る。

母親の腕にぶら下がるようにしている女の子に目をやる。この子の名前は、selvíña だ。

確かめずにはいられなかった。僕は、炉のそばに脱いで置いてあった毛皮の上着を、両手で持ち上げた。

「kráilim rásan服を持つ.」

セルヴィーニャが、ぱっと顔を上げた。それから僕を指さして言った。

「kráiles rásan!あなたが服を持つ!」

フレウレラさんが、眉を上げて、娘と僕を見比べていた。

だとすると、n を付けて呼んだあの朝、僕はこの子を「セルヴィーニャを!」と呼んだことになる。笑われるわけだ。

でも、そうすると、わからないことが一つ残る。

この子の名前が selvíña なら、僕が最初に井戸端で「selvíña」と呼んだとき、なぜあんなに笑われたのか。ウェレラさんと同じ呼び方をしたはずだ。それなのに、女の人たちは笑って、セルヴィーニャは真っ赤になった。

正しい名前で呼んでも、笑われる。名前は合っているのに、呼び方が間違っている、ということがあるのだろうか。

わからなかった。わからないから、これまでどおりに呼んだ。

僕はセルヴィーニャのほうに向き直った。縁の黄色い上着を肩に羽織って、うれしそうに体をひねっている。

「téそこの人.」

セルヴィーニャは、ぴたりと動きを止めて、僕をにらんだ。

フレウレラさんが吹き出した。

笑いながら、フレウレラさんはセルヴィーニャに何か言った。セルヴィーニャは、ますます口をとがらせて、何か言い返した。フレウレラさんは、もっと笑った。笑うと、目尻に細い皺がたくさん寄った。

何を言われているのかはわからなかったけれど、僕がおかしなことをしているのは、わかった。

やがてセルヴィーニャは、ふくれっつらのまま、僕の前に来た。自分の胸を指さした。

「selvíña.」

それから、炉を指さして、足もとの床を指さした。

「un bóraloi.」

次に、戸口を指さした。首を横に振った。それから肩をすくめて、いかにも仕方なさそうに言った。

「……té.」

家の中では、selvíña。外では、té。

そういうことらしかった。どうしてなのかは、わからなかった。

その夜から、僕は家の中でだけ、この子を名前で呼ぶようになった。

◆

その夜、炉のそばで、フレウレラさんが僕の袖をつまんだ。

ブレザーの袖だった。

落ちてきたときからずっと着ていた、学校の制服のブレザー。ヒルヴァンの毛皮の上着の下に、今も着ている。紺色の生地は、岩でこすれて、ところどころ毛羽立っていた。霧のせいで、袖口が湿って、少し重くなっていた。

フレウレラさんは、袖の生地を、親指と人差し指でゆっくりとこすった。それから、袖口を裏返した。縫い目を火に近づけて見た。指先で、縫い目を一つずつなぞった。どの目も同じ長さで、同じ間隔で、少しのゆがみもなく並んでいる。ボタンをつまんで、裏返して、また表にした。胸の校章の刺繍に、爪の先で触れた。最後に、もう一度袖の生地を火にかざして、細い糸の並びを目で追った。

その顔から、さっきまでの笑いが、すっかり消えていた。

炉の向こうで、セルヴィーニャが上着の縁の黄色い糸をいじる手を止めた。ヒルヴァンが顔を上げた。

フレウレラさんは顔を上げて、僕の目をまっすぐに見た。

「pá誰が téenda rásan sé?この服を」

フレウレラさんは、僕の答えを待たずに、両手を胸の前に出して、動かしてみせた。片手で、何かを左右に通す。もう片方の手で、手前にとんとんと打ちつける。布を織る手つきだった。

誰がこの服を織った、だ。

僕は口を開けて、何も言えなかった。

誰が織ったのかなんて、知らない。たぶん、どこか外国の工場の機械だ。人は、誰も織っていない。しかし、それをどうやって伝えればいいのか。機械、という言葉も、工場、という言葉も、僕はここの言葉で知らないし、そもそもこの世界にそれに当たるものがあるのかどうか。

僕は首を横に振った。わからない、という意味で。

フレウレラさんは、僕の顔をしばらく見ていた。それから、ウェレラさんのほうを振り返って、低い声で言った。

「naない téenda織った páin rásan sé.この服を」

この服を、織って、いない。そんな意味に聞こえた。páin だけが、引っかかった。

ウェレラさんは答えなかった。炉の火を見つめて、長いこと黙っていた。

フレウレラさんは立ち上がると、荷の中から、灰色の布をもう一つ取り出した。

ただの布かと思ったら、これも上着だった。厚い毛織りの、膝まである上着。袖も、襟も、きちんと仕立ててある。新しい。まだ誰も袖を通していないように見えた。

フレウレラさんはその上着を広げて、僕の肩に当てた。肩の幅を見て、袖の長さを見て、うなずいた。

ヒルヴァンが何か言いかけた。口を開いて、フレウレラさんの手の上着を見て、それから口を閉じた。

フレウレラさんは、上着を僕の胸に押しつけた。

「plél.」

僕は上着を受け取った。重かった。フレウレラさんは、僕のブレザーの襟をつまんで、引っぱった。これを着ろ、ということらしい。

僕は毛皮の上着を脱いで、ブレザーを脱いだ。灰色の上着に袖を通した。袖は少しだけ長かった。肩はぴったりだった。目の詰んだ厚い生地は、霧の湿気をはじいて、ブレザーよりずっとあたたかかった。

フレウレラさんは、僕の脱いだブレザーを手に取った。

ていねいに畳んだ。袖を内側に折って、校章が見えないように裏返して、小さく、四角く。

それから、部屋の隅の木の箱のふたを開けた。中に入っていた布を何枚か取り出して、ブレザーを箱のいちばん底に置いた。その上に、取り出した布を戻して、ふたを閉めた。

ふたが閉まる、ことん、という小さな音がした。

ひと月以上、毎日着ていた服だった。寝るときに脱いでも、朝にはまた袖を通した。これだけは、しまいこめなかった服。それが、あっけないほど簡単に、箱の中へ消えた。

フレウレラさんは、セルヴィーニャのほうを振り返って、言った。

「mé vír.」

聞いたことのある音だった。

若い男たちが、tóro híro と僕をからかったとき、ウェレラさんが男たちに向かって鋭く叫んだ言葉だ。あのときは、叱りつけている、ということしかわからなかった。

今はわかる。箱の底に沈めたブレザーと、フレウレラさんの顔を見れば。

mé vír言うな。

セルヴィーニャは、真剣な顔でうなずいた。

それから、フレウレラさんの目が、僕の足もとに落ちた。

スニーカーだった。泥にまみれて、白いゴムの底だけが、炉の火を映していた。

フレウレラさんは眉を寄せた。ヒルヴァンのほうを振り返って、低い声で何か言った。

ヒルヴァンは、面倒くさそうに鼻を鳴らした。それでも、僕の前にしゃがみこんだ。僕のスニーカーの横に、手のひらを当てた。親指と小指をいっぱいに広げて、かかとからつま先までを、二度測った。

それから、何も言わずに立ち上がって、炉のそばに戻った。

足の大きさを測られたのは、わかった。履き物を用意してくれるのだろうか。そこまでしてもらっていいのか、僕にはわからなかった。

しばらくして見ると、ヒルヴァンはフレウレラさんの隣に座っていた。二人とも何も話していなかった。フレウレラさんの手が、一度だけ、ヒルヴァンの背中に置かれて、すぐに離れた。

◆

その夜、僕は灰色の上着にくるまって、寝床に横になった。

新しい毛織りのにおいがした。羊とも違う、少し脂っぽいにおい。それから、かすかに、知らない家の炉の煙のにおい。どこか遠くの町の。

ブレザーは、箱の底にある。

あれは、僕がこの世界の外から来たことの、いちばん目立つ証拠だった。スマホも、財布も、鞄もなくした。残っていたのは、ブレザーと、スニーカーと、シャーペンとレシートだけだった。

その一つを、フレウレラさんは箱の底にしまった。

取り上げられたのだろうか、と最初は思った。

でも、たぶん違う。

ウェレラさんは、町の人たちの前で、大きな声で「ésa fúnelos」と言う。何の意味かはまだわからないけれど、みんなに聞こえるように言う。

フレウレラさんは、黙って箱にしまう。誰にも言うな、と言う。

どちらも、僕を守ろうとしてくれているのかもしれない。でも、やり方が正反対だった。

何から隠すのかは、わからなかった。

町の人からだろうか。あの人たちは、もう僕のことを知っている。今さら隠しても遅い。

だとしたら、もっと外の、誰か。

まだ僕の会ったことのない、誰かから。

霧の向こうで、風が崖を這い上がってくる音がしていた。星は、今夜も見えなかった。

僕は、少し長い上着の袖を、指でつまんだ。

この上着は、誰のためのものだったのだろう。僕には少し長くて、ヒルヴァンには小さい。セルヴィーニャやウェレラさんには大きすぎる。

壁には、まだ何も掛かっていない釘が一本ある。寝床も一つ、持ち主がいない。今、僕が横になっている、この寝床だ。

いつか、寝床の主も霧の中から帰ってくるのだろう。

そのとき、僕がこの上着を着ているのを見て、何と言うのだろう。

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