第10.5話 寝小屋の夜

大石段に通いはじめて、半月がたっていた。

十日担いで、町に帰る。その十日のあいだ、僕とウェレルは、ドゥランドの運び人の寝小屋に寝泊まりした。

寝小屋は、石段の上の広場の裏手にあった。石を積んだ壁に、平たい石の屋根。窓はなく、戸口は一つきり。中は細長い一間で、真ん中に炉が一つ切ってある。床には藁が厚く敷かれていて、運び人たちはその上に、肩を寄せ合って並んで眠る。

夜になると、二十人あまりの運び人が、この一間に詰めこまれた。

戸口から入ってすぐのところに、張り渡した綱があって、雨に濡れた肩掛けがずらりと吊るしてあった。炉の熱で、肩掛けから白い湯気が立っていた。毛山羊の毛の湿った匂い。汗の匂い。足の匂い。炉の煙と、樹脂を塗った履き物の、つんとする匂い。

初めての夜は、息が詰まりそうだった。

十日目には、もう気にならなくなっていた。

体のほうは、なかなか慣れなかった。朝起きると、首の後ろと太ももが、ひと晩じゅう誰かに踏まれていたみたいに痛んだ。肩には、背負い枠の当たる場所に、硬いたこができかけていた。

それをほぐしてくれたのは、蒸し小屋だった。石段の下の降ろし場の脇に、運び人のための小屋があった。町の小屋の倍は大きくて、五日に一度ではなく、毎日焚いていた。日が暮れると、運び人たちは荷を下ろしたその足で小屋へなだれこんだ。焼けた石に水をかける役は、その日いちばん多く担いだ者だった。上の段には年かさの運び人が並んで、一日の荷の愚痴と、宿の商人の悪口と、どこかの娘の噂を、湯気の中でいつまでもしゃべっていた。半分も聞き取れなかった。それでも、下の段で汗を流していると、首の後ろの痛みが少しずつほどけていった。

石段では、運び人たちは掛け声をかけた。

重い荷を二人がかりで背負い枠に載せるとき、片方が「ésa!」と言うと、もう片方が「hóisa!」と返して、いっしょに持ち上げる。列になって石段を上るときも、先頭が ésa と言えば、後ろの者たちが hóisa と返す。足を出す拍子が、それでそろう。

ésa は、知っている言葉だった。「〜だ」の ésa。でも、掛け声の中では、何の意味もなさそうだった。hóisa のほうは、聞いたことがない。

よいしょ、みたいなものなのだろう。僕も、その意味は考えなかった。三日もすると、荷を持ち上げるたびに、口が勝手に hóisa と返すようになっていた。不思議と、それだけで荷が少し軽くなる気がした。

◆

寝る場所は、だいたい決まっていた。

炉にいちばん近いところが、いちばん年かさの運び人の場所だった。そこから年かさの者や長く担いできた者が順に並び、戸口のほうへ行くほど若い者、新入りが多くなる。いちばん戸口に近い、隙間風の吹きこむ冷たい場所が、新入りの寝場所だった。

ウェレルは、年のわりに炉に近いほうに寝る。十二のときから、町を出て石段を担いできたのだと、身振りで教えてくれた。指を十本立てて、それから二本。それから、自分の背の高さより、ずっと低いところに手のひらを置いた。

僕は、戸口の脇だった。

夜中に誰かが用を足しに出るたびに、戸が開いて、雨の匂いのする冷たい風が顔に吹きつけた。戻ってくる運び人は、暗がりで僕の足を踏んでいった。三人に一人は、わざとだと思う。

◆

その夜も、雨だった。

夕飯は、焼いた雑穀の餅と、薄い汁だった。運び人たちは炉のまわりにしゃがみこんで、手づかみで餅を食べた。指についた汁を、着ているものの膝で拭いた。早口の冗談が、炉の上を飛び交った。僕にわかるのは、三つに一つくらいだった。わからないまま笑うと、なぜ笑ったのかと聞かれそうで、笑うのもためらわれた。

炉の向こうで、若い運び人が僕を見て、にやりと笑った。

石段の下で、僕に向かって「荷が来たぞ」と言った男だった。o のほうで。ウェレルが前に立って黙らせた、あの男だ。

男は、また言った。

「táiso fáron荷が来たぞ!」

まわりの何人かが笑った。

僕は餅をかじったまま、うつむいた。言い返す言葉は、まだ持っていなかった。ウェレルは炉の向こう側にいて、今夜は気づいていないようだった。

そのとき、炉にいちばん近いところで、しわがれた声がした。

「fáron荷 faronér担ぐ fáron荷.」

いちばん年かさの運び人だった。

みんなから ólmar と呼ばれていた。年長の人、という意味らしい。名前を呼ばずに、そう呼ぶ。髪も髭も真っ白で、背中は荷の形に曲がっていた。左手の指が二本、根もとからなかった。昔、荷の綱に挟まれたのだと、ウェレルがあとで身振りで教えてくれた。両手の指を絡ませて、ぎゅっと引く仕草だった。

ólmar長老 は、炉の火を見たまま、もう一度言った。

「fáron faronér fáron荷が荷を担ぐ.」

荷が、荷を担ぐ。

一瞬、小屋の中が静かになった。

それから、どっと笑いが起きた。さっき僕をからかった若い男も、笑っていた。自分の胸を叩いて、「fáron!」と言った。隣の運び人も、自分の胸を叩いた。「fáron!」。向こうの運び人も。

みんな、荷なのだ。

少なくとも、この炉のまわりでは。

僕は、自分の胸を叩いた。

「fáron.」

運び人たちが、また笑った。今度の笑いは、僕に向いていなかった。僕と一緒に、笑っていた。

若い男が、炉ごしに、餅の残りを一切れ放ってよこした。受け取りそこねて、藁の上に落ちた。拾って、藁を払って、食べた。若い男が、また笑った。

◆

夜が更けると、炉の火が小さくされた。

運び人たちは、藁の上に横になった。肩掛けを体にかけて、隣の者と背中を合わせる。他人の背中は、思っていたよりずっと温かかった。僕の隣は、ウェレルではなく、さっきの若い男だった。いつのまにか、戸口のほうへ寝場所を移してきていた。

屋根を打つ雨の音がした。

炉にいちばん近いところで、長老が、低い声で歌いはじめた。

ゆっくりとした歌だった。昼間、石段を担いで下りるときの荷担ぎ歌と、節は似ている。でも、もっと遅くて、もっと低い。一歩一歩踏みしめる拍子ではなく、揺りかごを揺らすような拍子だった。

「dúl下りる fáron荷, dúl下りる faronár運び人.  áur上がる sáko塩, áur上がる faronár運び人.」

一人、また一人と、横になったまま、声を合わせた。藁の上の暗がりのあちこちから、低い声が湧き上がった。床に耳をつけていると、声が藁を伝って、体の下から響いてきた。

荷が下りる。運び人が下りる。塩が上がる。運び人が上がる。

僕は、暗がりの中で目を開けた。

町の言葉なら、荷が下りるときは dúlo、人が下りるときは dúla と言う。終わりの o と a で言い分ける。

でも、運び人たちは、言葉の終わりを飲みこむ。

dúl fáron。dúl faronár。

下りる、という言葉から、荷と人を分ける音が消えていた。

荷も、人も、同じ音で下りていく。

o で呼ばれても、a で呼ばれても、この崖道では、同じ音になるのだ。

それが、なぜか少しだけ気を楽にした。

歌は何節も続いた。霧の節。凍った石段の節。女の人が出てくる節があって、そこで何人かが忍び笑いをした。僕にはほとんど聞き取れなかった。一日じゅう荷を担いだ体が、藁の中に沈んでいく。瞼が重かった。

どの節も、最後は faronár で終わった。運び人が下りる。運び人が上がる。運び人が、霧の中を。何を歌っても、最後は自分たちのことに戻ってくる。

歌がいつ終わったのか、覚えていない。小屋の中には、雨の音と、二十人の寝息だけが残っていた。

僕は、そのまま眠ってしまった。

◆

朝、石段の上で、背負い枠に荷を縛りつけていると、長老が隣に来て、黙って縄の端を引いてくれた。僕の結び目は、ゆるかったらしい。指の二本ない左手で、器用に結び直した。

結び終えると、長老は曲がった背中のまま、僕を見上げた。ゆうべの炉の明かりの中で見たときより、ずっと年を取って見えた。

それから、左手で、崖の外の、ずっと下のほうを指さした。

「anlúin昔, táis来た éndr人 es dálor下の国から. wéirなった faronár運び人.」

語尾を落とす崖道の言葉だったけれど、長老は、僕のために、一語ずつゆっくり言ってくれた。

長老は、今度は空を指さした。それから、その指を、ひゅっと下へ落とした。空から何かが落ちてくる仕草だった。

「dulána.」

流れ星。

最初の夜、引き上げられた僕を見て、町の人たちがささやいた言葉だ。セルヴィーニャが、僕のことを「dulána じゃない」と言った言葉。空から落ちてくるもの。ここでは、よくないものなのかもしれない。

長老は、その流れ星の仕草をもう一度して、それから、自分の背中の荷を叩いた。

空から落ちてきた人が、下の国から上がってきて、運び人になった。そういうことなのだろうか。

昔。どれくらい昔なのかは、わからなかった。

僕は、長老の顔を見た。

「ném僕 silóurも?」

長老は、長いあいだ黙って、僕を見ていた。白く濁りかけた目だった。

それから、崖道の早口ではなく、町の人のように、言葉の終わりまで一つずつ置くように言った。

「táisa éndra人が来たんだ.」

táis ではなく、táisa。

荷ではなく、人が、来た。

長老はそれだけ言うと、背負い枠を担ぎ上げて、額の帯に首を預けた。曲がった背中が、雨に濡れた石段を、一段ずつ下りていった。指の二本ない左手が、背負い枠の縁を、しっかりとつかんでいた。

◆

それからの雨季のあいだ、寝小屋で、何度もあの歌を聞いた。

荷が下りる。運び人が下りる。塩が上がる。運び人が上がる。

いつのまにか、僕も、暗がりの中で、小さく声を合わせるようになっていた。dúl faronár。運び人が下りる。

荷も人も、みんな同じ音になった。

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