第11話 待て

雨季の終わりは、黄金色をしていた。

畑の粟が、いつのまにか膝の高さまで伸びて、穂を重たげに垂れていた。細かい粒がびっしりとついた穂は、風が吹くたびに一斉に揺れて、さらさらと乾いた音を立てた。雨はもう、朝のうちに少し降るだけになっていた。昼になると雲が切れて、斜めの日差しが穂の上を滑っていく。斜面じゅうの畑が、薄い金色に光った。

あれからふた月、僕はウェレルについて大石段に通った。

十日担いで、町に帰る。二日休んで、また狩人の小道を下りる。肩の皮が一度むけて、その下から硬い皮ができた。額の帯の跡が、日に焼けずに白く残った。運び人たちの早口も、半分くらいは聞き取れるようになった。tór と言われても、もう前へは出ない。荷を持ち上げるときには、誰かの ésa に、hóisa と返す。「táiso fáron.荷が来たぞ」とからかわれれば、「fáron荷 faronér運ぶ fáron荷! ké何か?」と言い返す。言い返すと、運び人たちは笑った。前の笑い方とは、少し違う笑い方だった。

雨季の終わりに一度、ウェレラさんが熱を出した。

ちょうど町に帰っていた夜だった。ウェレラさんは炉のそばに寝かされて、浅い息をしていた。額に手を当てると、乾いて熱かった。いつもまっすぐな小さい背中が、毛皮の下で丸くなっていた。

フレウレラさんが薬草を煎じた。苦い、青くさい湯気が部屋に満ちた。ヒルヴァンは黙って薪を割りつづけた。明日の分を割り終えても、外で斧の音はやまなかった。セルヴィーニャは、ウェレラさんの足もとで膝を抱えたまま、眠らなかった。

僕は夜通し、炉の火の番をした。火が小さくなると薪を足し、鍋の湯が減ると水を足した。それくらいしか、できることがなかった。

夜中に、ウェレラさんが薄く目を開けた。僕の手を探して、握った。乾いて、軽い手だった。

「éso már só már fúnelos.綱の手だね」

ウェレラさんは、僕の手のひらの硬くなったところを、親指でなぞった。背負い枠の縄がつくった、たこだった。

「naない már手 fúnelos綱の. már手 faronáres運び人の.」

僕がそう言うと、ウェレラさんは目を閉じたまま、少しだけ笑った。

明け方に、熱が下がった。ヒルヴァンは、割った薪を戸口に山のように積んだまま、そこで座りこんで眠っていた。

◆

刈り入れが始まった。

町じゅうの炉が、総出で畑に出た。ウェレラさんも、フレウレラさんも、ヒルヴァンも、セルヴィーニャも。大石段を休んだウェレルも。熱の下がったばかりのウェレラさんは、畑の端に座って、刈った穂の数を数えていた。誰が止めても、家にいようとはしなかった。

僕も、湾曲した小さな刃物を渡されて、穂の根もとを刈った。左手で穂の束をつかみ、右手の刃を手前に引く。刃が茎に食いこむ、さくり、という手ごたえ。乾いた葉が手首をこすって、細かい傷をつけた。

腰が痛くなった。手のひらにまめができた。刈った穂を束ねて、畑の端の木の枠に掛けていく。枠に掛けた穂が、乾いた風に揺れていた。

何か月か前、この同じ畑に、セルヴィーニャと三粒ずつ種を落とした。あの小さな黄色い粒が、こんなに重たい穂になった。

僕は束を運びながら、ずっと考えていた。

ドゥランドの運び人の頭の前で、九十二と言ったときのこと。頭の目。あの目は、僕を量っていた。

僕には、この世界の人が持っていないものがあるのかもしれない。

ネタ帳だ。

刈り入れが終われば、雨季も終わる。次の季節が来る前に、何か一つでも形にしたかった。荷ではなく、役に立つものとして、この家に何かを返せるように。

◆

最初に試したのは、マヨネーズだった。

卵と油と酢があればできる。この世界の人が知らない味で、みんなを驚かせる。崖の途中で、凍えながらいちばん最初に思い浮かべたのも、これだった。

問題は、卵だった。

この町に来てから、僕は一度も卵を見たことがなかった。鶏の鳴き声を聞いたこともない。毛山羊は、どの家にもいる。でも、鶏のような鳥を飼っている家は、見たことがなかった。

夕方、炉のそばで、僕はセルヴィーニャの前の灰に鶏の絵を描いた。とさか。丸い胴。短い脚。それから、セルヴィーニャの顔を見た。

「pósoこれは何?」

セルヴィーニャは首をかしげて、絵をのぞきこんだ。それから、ぱっと顔を明るくして、天井の煙穴を指さした。

「aurá?」

セルヴィーニャは両腕を広げて、ゆっくりと羽ばたくまねをした。それから、腕を広げたまま、すうっと上へ伸びあがった。羽ばたかずに、風に乗って昇っていく鳥。

鷲だ。崖の縁で、ときどき見かける、あの大きな鳥のことだ。

僕は首を振った。

「na違う.」

それから、鶏の絵の下に、楕円を一つ描いた。楕円を指さして、それから鶏を指さして、お尻のあたりから楕円が出てくるまねをした。

セルヴィーニャはしばらくぽかんとして、それから、吹き出して、言った。

「bréula卵!」

僕は勢いこんでうなずいた。それがたくさん要る。両手で山の形をつくって、たくさん、と伝えた。

セルヴィーニャは首を振った。

「na ésa bréula.卵はない」

それから、両手を動かしながら、長いことしゃべった。

「ésa bréula卵 snír, esós naない mánimor食べる élan bróusin. lúin tóra来る reinálva, bróla作る flíva tendó un sávrail véinoros ánores. táulsin élais, faronéran éndrai人 mérvos véinoros élais un kéndor. lúin sáilimor, mánimor食べる élais, ín一 orvél dáu二.」

聞き取れたのは、ところどころだった。でも、セルヴィーニャの手が話の筋を教えてくれた。北のほうを指さす。両手で丸い巣のような形をつくって、その中に指で何かをそっと置く。それを拾うまね。背負って、運ぶまね。それから、指を一本立てて、少し考えて、もう一本立てた。

どこか遠くで、鳥の巣から卵を拾ってくる。それを、一つか二つ、何か特別なときに食べる。たぶん、そういうことだ。

卵が、ない。少なくともこの町では、卵は毎日手に入る食べ物ではないらしい。

油は、と聞こうとして、やめた。この家の炉で使っている脂は、毛山羊の脂だ。酢を見たこともない。

マヨネーズは、材料が一つもそろわなかった。

まあ、そうだろうな、と思った。崖の途中で思い浮かべたときから、なんとなく、そんな気はしていた。

◆

次は、リバーシだった。

卵と違って、特別な材料は要らない。盤と、白と黒の石があればいい。白と黒の石なら、この世界にもある。町の倉で、老人が石の板に並べていた。

僕は炉の灰をならして、指で大きな四角を描き、その中を縦七本、横七本の線で区切った。六十四のます目。それから、川原で拾ってきた白っぽい小石と黒っぽい小石を、真ん中の四つのます目に、互い違いに置いた。

セルヴィーニャが、膝で這ってきた。灰の上の盤をのぞきこんだ。

僕は白い石を一つ取って、ます目に置いた。黒い石を挟んで白にひっくり返す……のは小石ではできないので、黒い石を取りのけて、白い石に置き換えた。

「léimim置く món石. klámbim挟む, táulim取る. léimes置く tásあなた, selvíñaセルヴィーニャ.」

黒い石を、セルヴィーニャの手に載せた。

セルヴィーニャは盤と石を交互に見た。それから、急に立ち上がって、部屋の奥へ走っていった。木の箱をいくつかひっくり返して、何かを抱えて戻ってきた。

板だった。

手のひらを二つ並べたくらいの大きさの、平たい木の板。表面に、細い線と点が、びっしりと彫りこんであった。手の脂で、線の溝が黒く光っていた。線は、四角います目ではなかった。点と点を結んで、いくつもの形をつくっていた。熊のような形。鳥のような形。弓を引く人のような形。まるで星座のようだった。

板の脇には、小さな袋がついていた。セルヴィーニャが袋を逆さにすると、白い石と黒い石が、からからと板の上に転がり出た。川原の小石ではない。きれいに磨いた、同じ大きさの丸い石だ。

「þíndel!」

セルヴィーニャは得意そうに言って、白い石を一つ、板の上の点に置いた。

この世界には、もうあったのだ。

白と黒の石を盤に並べて、取り合う遊びが。それも、ただの四角います目ではなく、星座の形の盤で。

セルヴィーニャは、一気にしゃべりながら、石を置いてみせた。

「léimes置く mǘn aldárail. sán filái fílenai un méndalei aldárar. ké senéles élais? klambírau dáu二 mónou táses món éul filéi, táules取る ó. houmeríres mǘn éulul, táules取る óul ín一 fréim. ké þéiles?」

言葉より、手のほうがわかりやすかった。石は点の上に置く。一本の線の両側から、相手の石を挟むと、取れる。それから、もう一つ。

セルヴィーニャは、線でつながった三つの点に、黒い石を三つ置いた。星座の線は、一つの点から二本か三本しか出ていない。三つの黒い石から外へ伸びている線は、全部で三本だった。セルヴィーニャは、その三本の線の先の点に、白い石を一つずつ置くと、三つの黒い石をざらっと手のひらにさらってみせた。囲碁に少し似ている。ただ、ここでは逃げ道は線の数しかない。

リバーシと碁を混ぜたような遊びだった。

最初の一局は、あっという間に負けた。

途中からは、僕が三つ石を置くあいだに、セルヴィーニャは僕の石を七つ取った。気がつくと、僕の黒い石は、盤の端の熊の脚のあたりに、二つだけ残っていた。

セルヴィーニャは、取った僕の石を手のひらに積み上げて、にやにや笑った。

二局目を頼んだ。

今度は置く前に、線をよく見た。点は、全部で四十九あった。石は、一人二十四ずつ。袋の石を打ち尽くしたら終わりで、そのとき盤に残っている石の多いほうが勝ちらしい。

盤全体を、頭の中で地図にした。どの点が何本の線につながっているか。どこを取られると、どこまで崩れるか。数えればいい。数えるのは得意だ。

二局目は長くなった。

炉の火が小さくなって、ウェレラさんが薪を足した。フレウレラさんが、機の手を止めて、こちらを見ていた。ウェレルが、いつのまにかセルヴィーニャの後ろに座って、口を出しはじめた。セルヴィーニャがウェレルの手をはたいた。ヒルヴァンは弓の手入れをするふりをして、ときどき盤のほうに目をやっていた。

終わってみると、盤の上には僕の黒い石が十一、セルヴィーニャの白い石が九残っていた。

セルヴィーニャは盤の上を、指で何度も数え直した。それから顔を上げて、僕を見た。

「seirénde待って!! seirénde待って!! ín fréiman, endeもう一回!!」

セルヴィーニャは盤の上の石を全部袋に戻して、また白い石を置いた。ウェレルが腹を抱えて笑った。

三局目は、セルヴィーニャが勝った。四局目は、僕が勝った。五局目の途中で、ウェレラさんが灯を吹き消した。

「dórel, kúndimor ó ín fréiman.明日、もう一回だからね」

暗闇の中で、セルヴィーニャが悔しそうに言った。

驚かせるつもりのリバーシは、はずれだった。この世界には、もっと面白い遊びが、とっくにあった。

でも、悪い夜ではなかった。

◆

三つ目は、活版印刷だった。

これは、本命だった。

この国の人は、書いたものを大事にする。でも、書くのは手だ。書記が一枚ずつ、筆で書く。同じ文を十枚欲しければ、十回書く。

字を一つずつ、木の小さな塊に彫っておく。それを並べて、墨をつけて、紙に押しつける。並べ替えれば、どんな文でも刷れる。一度彫った字は、何度でも使える。

これなら、きっと。

僕はヒルヴァンの小刀を借りて、薪の端を小さな四角い塊に切り分けた。その一つ一つの平らな面に、字を彫った。左右を逆にして。拓本のときに溝のところが白く抜けたのを思い出して、今度は字のまわりを削り、字のほうを高く残した。

小刀はよく切れたけれど、木の目に逆らうと、刃が滑って指をかすめた。三日のあいだに、左手の指先は傷だらけになった。

三日かかって、hh、ii、rr、oo の四つの塊ができた。

町の木工の家に、それを持っていった。

木工の家は、町の上手の、倉の隣にあった。戸口から入ると、木の削りくずのにおいがした。乾いた、甘いにおいだった。壁には、のみや小刀や錐が、大きさの順に並べて掛けてあった。床には、削りかけの椀や、柄のない斧や、樽の板が転がっていた。

奥の作業台で、腰の曲がった老人が、何かの板を削っていた。顔じゅうが皺で、眉毛が白く長く伸びて、目にかかっていた。

老人は、僕の手の中の木の塊を見て、眉毛の下の目を細めた。

「pón tíles?何を彫っている?」

tíl は知らない言葉だった。でも、老人の手の中の小刀と、僕の手の中の塊を見れば、わかる。

僕は塊を作業台の上に並べた。

「lisá字.」

老人は塊を一つ取り上げて、彫った面を指でなぞった。左右が逆の、rr。老人は塊をひっくり返したり、光にかざしたりしていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。

「ké lisáis字, téiles彫った árnelei?」

老人は作業台の下に手を入れて、何かを引っぱり出した。

板だった。

僕の両手を広げたより大きい、平たい板。その一面に、字が、びっしりと彫ってあった。左右が逆の字が、何行も。字のまわりは削り取られて、字のほうが高く残っていた。字と字のあいだに、墨がこびりついて黒くなっていた。

「pandá sé.」

老人は板の表面を、手のひらで撫でた。

「pándimor.」

pánd は、知らない。でも、老人が板と僕の塊を交互に指さすのを見ればわかる。

これで、刷る。

この世界には、もうあった。字を板に彫って、墨をつけて、紙に刷るやり方が。それも、一つの字ずつではなく、一枚の板にまるごと。

でも、と僕は思った。

一枚の板に彫ったら、その板で刷れるのは、その文だけだ。僕のは違う。字がばらばらになっている。並べ替えれば、どんな文でも刷れる。

僕は四つの塊を作業台の上に並べた。hiroh i r o。それから、並べ替えた。rohir o h i。もう一度、並べ替えた。並べ替えるたびに、老人の顔を見た。

老人はしばらく黙って、僕の手を見ていた。

わかってもらえた、と思った。老人の目が、何かに気づいたように光った気がした。

しばらくして、老人は首を横に振った。

「naダメだ. tíla tilár彫る者が彫る.」

老人は板を指で叩いた。それから、ゆっくりと、長く話した。

「pandán板 sé, naない téilim ném私. téila tilár彫る者 þailvéinoros élan. lúin tíla ín一 pandán, dúlan pómbarin ombrénai. dúlo ráun tilárar pómbarin lóurul, mánin食べる lúsan粥 térin. orveléimsin brúndul táses, pandíres lisáis, naない haléla dóulin páin誰も tilárais.」

全部はわからなかった。老人は話しながら、板を指さし、自分ではない遠くのほうを指さし、指を何度も折って、長い日数を数えるような仕草をした。それから、粥をすする手つきをした。最後に、僕の四つの塊を指さして、壁に並んだのみを見上げて、首を振った。

彫る者は、この板一枚に、長い時間をかける。そうやって、粥を食べている。僕の塊で、どんな字でも並べて刷れるようになったら、彫る者は、誰も要らなくなる。

たぶん、そういうことを言っているのだと思った。塊だって、誰かが彫らなければできないのに。

老人は、作業台の上の紙の切れ端をつまんで、指でこすってみせた。

「si plána紙?. éso prámbo plánes áuren. naない ésa esfóndos un análoroi plána紙? bróus te pándan viráis élei.」

紙は、高い。そして、少ない。そういうことなのだろう。ドゥランドの帳場では束になっていた紙も、この町では、一枚の切れ端だった。

老人は僕の四つの塊をまとめて、僕の手のひらに戻した。拒むような手つきではなかった。むしろ、ていねいだった。それから、また作業台に向かって、板を削りはじめた。

削りくずが、静かに床に落ちていった。

◆

帰り道、日が暮れかけていた。

刈り入れの終わった畑には、穂を掛けた枠が並んでいて、夕日の中で長い影を落としていた。風が冷たくなっていた。乾いた、北からの風だった。雨季が終わるのだ。

僕は手のひらの中の四つの塊を、握ったり開いたりしていた。傷だらけの指に、塊の角が当たった。

マヨネーズは、材料がなかった。リバーシは、もっと面白い遊びがあった。活版印刷は、ここでは歓迎されなかった。それに、紙は、気軽に試し刷りに使えるものではなかった。

読んできた話の中では、主人公の知識は、いつも当たった。その世界の人たちが、その知識を持っていなかったからだ。

でも、この世界の人たちは、ちゃんと持っていた。卵が少ないことも、石を取り合う遊びも、字を刷るやり方も。僕が思いつくようなことは、この人たちがもう何百年も前から、この人たちのやり方でやっていた。足りないのは、この人たちの知恵ではなかった。この世界の、卵や、紙のほうだった。

家に着くと、炉のそばで、ヒルヴァンが弓の弦を張り替えていた。

僕は戸口で足を止めた。手の中の塊を見下ろした。

ヒルヴァンが顔を上げた。僕の顔を見た。それから、僕の手の中の、木の塊を見た。傷だらけの指も、見たと思う。

何か言われる、と思った。役に立たないものを作って、と。

ヒルヴァンは、弦を張る手を止めないまま、短く言った。

「séir.待て」

最初の日、崖の上から、ヒルヴァンが僕に言った言葉だった。

ヒルヴァンは、それきり何も言わなかった。弦を張り終えて、弓を壁に立てかけて、炉の火に薪を一本足した。

僕は木の塊を、胸のポケットにしまった。レシートとシャーペンの隣に。

あの日、ヒルヴァンは待てと言って、本当に戻ってきた。綱を持って。

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