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乾季が来た。
ある朝、目を覚ますと、空気の手ざわりが変わっていた。雨季のあいだ肌にまとわりついていた湿り気が、一晩で消えていた。戸口を開けると、冷たく乾いた風が、北から真っすぐに吹きこんできた。草の匂いも、土の匂いもしない。磨いた石のような、何の匂いもしない風だった。
空が高かった。
雲が一つもなかった。崖の下に溜まっていた雲さえ、乾いた風に押し流されて、どこかへ消えていた。縁の肩から見下ろすと、崖の下の泥の原が、初めて端から端まで見えた。濡れた鏡のように光る平らな地面が、空の色を映して、どこまでも続いていた。dálor。ここの人たちがダーロルと呼ぶ国だ。
夜は、星が降るように出た。
霧の季節の十日、星を一つも見なかったのが嘘のようだった。白い月と赤い月のあいだを、数えきれない光の粒が埋めていた。町に帰った夜には、ウェレラさんが戸口の外に出て、しばらく空を見上げていた。
乾季に入って三日目、帳場は昼で閉まった。
明日は、年の始まりなのだという。年の始まりの日は、誰も働かない。帳場も、降ろし場も、市も閉まる。僕はウェレルと狩人の小道を町へ帰った。
次の朝、まだ夜が明ける前に、ウェレラさんに揺り起こされた。
まだ真っ暗だった。家じゅうの者が、毛皮を肩にかけて、黙って戸口の外へ出ていく。ヒルヴァンも、フレウレラさんも、ウェレルも、眠そうに目をこするセルヴィーニャも。僕も、あとについて出た。
外は、凍りつくように寒かった。
息が白かった。星は近く、手を伸ばせば指先に触れそうだった。ウェレラさんは、北の空のいちばん明るい光の一つに向かって、手のひらを上に向けて、目の高さより上へ差し上げた。指でさすのではなかった。何かを、そっと捧げるような手つきだった。
「ilánai.」
初めて聞く言葉だった。落ちてきたばかりの冬は、星を見上げる余裕も、星の話を聞き取る言葉もなかった。そのあとは、霧と雨季の雲が、ずっと空をふさいでいた。でも、手のひらの先にあるのは、星しかない。
ウェレラさんは、それから、ゆっくりと息を吐いた。白い息が、夜の空気の中へ立ちのぼって、消えた。その白い息を指さした。
「selvá.」
息。
消えていく白い息を目で追って、手のひらで、その先の星を示した。
「áura selvá an ilánais.」
井戸端で、ウェレラさんが女たちに言った挨拶を思い出した。aurénde selvá。女たちは an ilánais と返した。
あなたの息が、昇りますように。星々へ。
それがここでの挨拶だったのだ。
◆
東の空の、崖の縁の上が、ほんの少しだけ薄くなった。
そのいちばん低いところに、小さな光の粒が、ひとかたまりになって昇ってきた。一つ、二つではない。細かい光が、指の先ほどの狭いところに、ぎゅっと寄り集まっている。
「ombár ilánai.」
ウェレルが、白い息といっしょに小さく言った。
「táisa tráimel ível.」
十の灯。数えてみたくなって、目を凝らした。七つまでは見えた。あとは、明るくなりはじめた空ににじんで、数えられなかった。十というのは、数ではなく名前なのかもしれない。
ウェレラさんが、十の灯に向かって、両手の手のひらを差し上げた。それから、家の者の名前と年を、一人ずつ唱えはじめた。
「weréla, sóurombar téir. hílvan, fáirombar dáu. fleuréla, fáirombar. wérel, ombár réum. selvíña, ombár lím.」
名前が呼ばれるたびに、呼ばれた人は、黙って手のひらを星へ差し上げた。セルヴィーニャは、十五と言われたところで、ちょっと背筋を伸ばした。
この国では、年の始まりの朝に、みんな一緒に一つ年を取るのだ。生まれた日ではなく。
ウェレラさんは、そこで一度、言葉を切った。
それから、僕のほうを見ないまま、同じ調子で唱えた。
「híro, ombár sóur.」
僕は、すぐには動けなかった。
いつか灰の上で、両手を広げ、それから片手をもう一度広げて、自分の年を見せたことがあった。ウェレラさんは、それを覚えていたのだ。十五に、一つ足して、十六。家の者と同じように。
ウェレラ、ヒルヴァン、フレウレラ、ウェレル、セルヴィーニャ。その名前の列の、いちばん最後に、僕の名前が並んでいた。
隣で、セルヴィーニャが僕の脇腹を肘でつついた。手を上げろ、ということだった。
僕は、手のひらを星へ差し上げた。冷たい空気が、袖の中に流れこんだ。
◆
本当は、僕はもう十六になっていた。
落ちてきた日から、何日経ったのかを数えていたのだ。薪の切れ端に、毎朝一本ずつ刻み目を入れていた。大石段に通うようになってからは、運び人の頭の数え棒をまねて、十本ごとに長い刻みを入れている。胸ポケットのレシートには、本屋の名前と一緒に、日付が印字されている。あの日の日付だ。そこから刻み目を数えれば、向こうの暦で今日が何月何日なのかがわかる。向こうでも、こっちと同じだけ日が過ぎているのなら。数えるのをやめたら、向こうの世界とのつながりが、終わってしまうような気がしていた。
向こうの暦で六月。梅雨の季節に僕は生まれた。
その日は、こちらに来てから百七十五本目の刻み目の日だった。雨季の終わりの、雨の日だった。寝小屋の戸口の脇で、運び人たちのいびきを聞きながら、心の中でだけ、おめでとう、と言った。誰にも言わなかった。言っても、わかってもらえる気がしなかった。年の始まりの朝に、家じゅうでそろって年を取る国だ。生まれた日を祝う習わしは、たぶんない。それに、向こうの暦の日付を数えつづけていることを、どう説明すればいいのかもわからなかった。
家の中へ戻りかけたとき、セルヴィーニャが僕の袖を引いた。
「híro, ké rímban tráimelais téndoi silóur, sénin ilánais?」
セルヴィーニャは、さっきウェレラさんがしたように、星のほうへ手のひらを差し上げてみせた。向こうでも、こうやって星を見て、みんなで年を数えるのか。たぶん、そう聞いている。
僕は首を振った。それから、言える言葉を探した。
「nés. téndoi… éndra ín, tráimel ín.」
自分の胸を指さして、指を一本立てた。それから、セルヴィーニャを指さして、もう一本。ウェレルを指さして、もう一本。一人ずつ、別々の日に、一つずつ。
それから、自分の胸をもう一度指さした。
「tórim réinei. ombár sóur.」
生まれる、という言葉を、僕は知らなかった。だから、来る、と言った。梅雨、という言葉もない。だから、雨、と言った。向こうの暦の話をするには、僕の言葉はまだ全然足りなかった。
セルヴィーニャは、目を丸くした。
「réinei?」
それから、しばらく何か考えていた。東の空が、だんだん白くなっていった。十の灯が、空の明るさに溶けて、見えなくなっていった。
「esós táisan híro si réina.」
「え?」
「víran ómbra gráisin ré brúuma híro. salóur réina silóur brúuma, es ánoros. ésa réina sáun.」
セルヴィーニャは、自分でうなずいた。
「esós na táisa híro es dáloros. táisa es ánoros.」
僕の国の梅雨と、この国の雨季は、同じものではない。僕が生まれたのは、この国の雨の中ではない。
でも、僕は何も言わなかった。
この国では、雨は上から来るものだ。上から来るものは、悪いものではない。セルヴィーニャは、僕が来たことを、ずっとそんなふうに考えたかったのかもしれない。
家の中で、ウェレラさんが炉に新しい火を入れていた。年の始まりの、最初の火だった。
◆
年の始まりの日の夕方、僕はウェレルと、また狩人の小道を下りた。
乾季のあいだ、僕はドゥランドに寝泊まりするようになっていた。町からドゥランドまでは、狩人の小道を半日歩く。毎日は通えない。ウェレルと一緒に、上の宿の裏にある運び人の寝小屋に寝て、毎朝、帳場へ通った。町へ帰るのは、十日に一度だった。
明日、来い。老人がそう言った次の日から、僕の昼の居場所は、帳場の長い机のいちばん端になった。
役についたわけではないので、帳場から手当は出ない。朝と夕方は、これまでどおり大石段で荷を担いで、その分の運び賃をもらう。帳場の机に座るのは、昼のあいだだけだ。運び人の頭は、昼に僕が抜けても、荷を受け取る列の僕の順番を、ほかの者に回さずに取っておいてくれた。
一日の終わりに、老人が帳場の雑穀の袋から、両手に一杯ずつをすくって、黙って僕の袋に入れてくれる。駄賃のようなものらしい。石段を二、三往復した運び賃くらいにはなった。
仕事は、毎日同じだった。
書記たちが荷札を読み上げる。僕がその数を頭の中で足して、高原の数字で板に書く。老人が念押しを添え、若い書記が数え盤で確かめる。合っていれば、帳面に書く。合わなければ、どこが違うのかを、老人と僕とで探す。
合わないことは、ほとんどなかった。
老人の名前は、帳場に来て三日目に知った。
帳場の奥の壁に、書付が何枚も貼ってあった。どれも、頭に同じ字の並びがある。〈brándal orénos〉。霧の季節に、ウェレルが口にしていた並びだ。brándal は、町に役人が来たころに覚えた。書付はどれも、降ろし場と崖道の荷のことだった。崖道と降ろし場を取り仕切るお上なのだろう。道を取り仕切る役所なら、日本でいえば国土交通省だ。長いので、心の中では国交省と呼ぶことにした。
どの書付にも、最後に同じ字の並びと、同じ印があった。あの日、老人が板壁の念押しの横に指で書いた印と、同じ形だった。僕は字を一つずつ音に直した。
léuman。
読み上げかけて、口を閉じた。若い書記たちが、誰も老人を名前で呼ばないことに気づいていたからだ。みんな老人のことを「aulisár」とか「ólmar」とか、そういう呼び方で呼んでいた。目上の人の名前を口にするのは、たぶん、この国では無礼なのだ。
僕は心の中でだけ、その名前を呼んだ。レウマンさん。
◆
乾季に入って五日目に、「最初の下ろし」があった。
朝から、ドゥランドじゅうの人が降ろし場に集まっていた。運び人も、商人も、宿の者も、子どもも。大石段の上から崖の縁まで、人で埋まっていた。
降ろし場のいちばん大きな腕木の下に、丸太が一本、横たえてあった。
ただの丸太ではなかった。僕の胴回りの三倍はある太さで、表面は黒に近い深い茶色をしていた。木目が細かく詰まっていて、日の光を受けると、磨いた金属のように鈍く光った。木口には焼印が三つ、並んで押してあった。一つは、狼の顔のような印だった。
gandér。硬い木だ。この国が崖の下へ下ろす、いちばん大事な荷だと、ウェレルが言っていた。
丸太のそばに、色の違う上着を重ねた男たちが並んでいた。降ろし場の役人。いつか、拓本を読み、僕を綱の係に預けると決めた、あの緑の上着の男がいた。その隣に、深い緑に茶色を重ねた別の一団がいた。brándal arnélvaresの人たちだ、とウェレルが耳打ちした。森のことを取り仕切る役所、ということらしい。森の役所なら、日本でいえば林野庁だろうか。
林野庁の一人が、丸太の前に進み出て、何か長い言葉を唱えはじめた。歌うような、古い節だった。倉の老人が岩棚の歌を歌った声に、少し似ていた。
唱え終わると、緑の上着の男が手を上げた。
巻き胴の棒に取りついた男たちが、一斉に声を上げた。ぎいい、と腕木がきしんだ。硬木の丸太が、ゆっくりと地面を離れた。
丸太は、腕木の先で一度大きく揺れてから、崖の外の空へ押し出された。そして、ゆっくりと、崖の下へ下りていった。
人垣から、歓声が上がった。どこかで太鼓が鳴った。
最初の下ろしが済むと、崖道に、人の流れができた。
崖の下から、上ってくる人たちがいた。
◆
崖の下から上ってきた人たちは、高原の人とは違って見えた。
肌の色が濃かった。日に焼けているというより、潮風に焼かれた色だった。上着は高原の毛織物のように何枚も重ねてはいなかった。薄い布を一枚、体に巻きつけて、その上から植物を編んだ肩掛けを羽織っている。肩掛けの縁に、ときどき、深い紫の糸が縫いこんであった。
この国で、紫を着ている人を、僕は見たことがなかった。いちばん偉そうな役人でさえ、緑と黄と茶だった。その紫を、崖の下から来た人たちは、肩掛けの縁に何気なく縫いこんでいた。
それから、匂いがした。
潮の匂いだった。
この世界に来て初めてかぐ匂いなのに、僕はその匂いを知っていた。海の匂い。干した海藻と、魚と、塩の匂い。崖の上の乾いた風の中で、その匂いだけが、湿って重かった。
その一団の中に、腰に青銅の札をさげた女がいた。
中年の、小柄な女だった。黒い髪を短く刈りこんで、日焼けした顔に、目尻の深い皺が刻まれていた。笑うと、皺がさらに深くなった。腰の札には、字が彫ってあった。崖の下の人なのに、崖の上の帳場の前を、当たり前のように歩いている。あの札が、そうしていいというしるしなのかもしれない。
女は帳場の前で足を止めた。僕と目が合った。
僕は頭を下げた。
「aurénde selvá!」
女はちょっと目を丸くした。それから、皺を深くして笑った。
「an ilánais.」
発音が、少し違った。言葉の終わりの音が、ふわりと柔らかく伸びて、どこか波の音を感じさせた。
◆
騒ぎが起きたのは、その日の昼過ぎだった。
帳場の前で、その女と、商人が言い合いをはじめた。
商人は、大石段の勘定で揉めていた、あの指輪をはめた恰幅のいい男だった。男と女のあいだに、木の箱が積み上げてあった。蓋の隙間から、白っぽい粗い塊がのぞいていた。
塩だ。
女が崖の下から運び上げてきた塩を、男が買う。その数で、揉めていた。
男の手には、木の札が一枚あった。札を振りながら、崖道のほうを何度も指さした。今朝、崖道の途中で女と行き会って、その場で取り決めた、ということらしい。札の字は、男の手で急いで書いたように、ところどころ曲がっていた。
札には、数字が一つ書いてあった。三段に積んだ輪。。その下には、念押しの行がなかった。
男が、指を一本立てて言った。
「slúun!」
女が、首を振って言い返した。
「sélu!」
同じ千、のはずだった。でも二人とも、相手の言葉を違うものとして聞いていた。男は顔を赤くし、女は皺を深くして、少しも引かなかった。
帳場の戸口に、黄色い上着の男が現れた。
町の井戸の前で、僕の挨拶に返事をしなかった、あの役人だった。市の揉め事は、役人が裁くことになっているらしい。
役人は積み上げた塩の箱を見上げた。箱は、十二あった。一つの箱に、塊がいくつ入っているのか。全部の塊を数えるとしたら、何刻かかるのか。眉を寄せて、帳場の奥に向かって言った。
「pá rímba?」
帳場の奥で、老人が筆を置いた。顔を上げずに、乾いた声で言った。
「rímba híro.」
役人が、ゆっくりと振り返って、机の端の僕を見た。
◆
僕は塩の箱の前に立った。
女が箱の一つの蓋を開けてみせた。中には、布で包んだ小さな包みが、きっちりと詰めてあった。包みを一つ取り出して、布を開いた。親指ほどの大きさの塩の塊が、並んでいた。
その塊を、指で数えはじめた。
面白い数え方だった。
女は右手の親指の先で、同じ右手の人差し指の節を、一つずつ押さえていった。指先の節。真ん中の節。根もとの節。それから中指の三つの節。薬指。小指。親指で押さえるたびに、口の中で何か唱えていた。
「nai, pói, kéru, mása, lílo, tóla, húme, sëki, wáce, dímo, ëłu, lomé.」
知らない言葉だった。高原の言葉ではない。崖の下の言葉だ。
十二回で、四本の指の節が尽きた。そこで左手の指を一本折った。
指の節は、一本に三つ。四本で、十二。
十二で、一つ。
包みの中の塊は、十二あった。
包みを箱に戻して、箱の中の包みの数を数えはじめた。また親指で節を押さえて、十二で左手の指を一本折る。包みも、十二あった。
僕がほかの箱を指さすと、女は蓋を一つずつ叩いてまわって、うなずいた。どの箱も、同じ詰め方だということらしい。男も蓋を二つ三つ開けてのぞきこみ、口を曲げてうなずいた。
僕は思わず口に出していた。
「lomé?」
女の手が止まった。
僕の顔をまじまじと見て、それからゆっくりとうなずいた。
「lomé.」
十二だ。
僕は両手を広げて見せた。それから、十二の包みが詰まった箱を指さした。
「pápa?」
さっき女が、箱を両手で抱えて、仲間に向かって言っていた言葉だった。
女は両手をこちらに広げて見せて、言った。
「pápa!」
両手で十二を数えたのだ。十二が、十二で、百四十四。
崖の下の人たちは、十二で数えるのだ。十本の指ではなく、四本の指の十二の節で。十二が一つの束になり、十二の束が「pápa」になる。
だったら、1000は。
十二かける十二かける十二。千七百二十八。
僕は男の札の、三段の輪を指さした。それから、塩の箱の山を指さした。女は大きくうなずいて、親指で節を押さえる手つきを、三度、繰り返してみせた。十二を、三度。
同じ字を、二人は別の束の大きさで読んでいたのだ。
崖の下の1000は、千ではないのだ。男は陸の1000、つまり千を買ったつもりでいる。女は崖の下の1000、つまり千七百二十八を売ったつもりでいる。
◆
僕は帳場の板壁の前に戻った。炭を取った。
箱が十二。一箱に包みが十二。一包みに塊が十二。
12 × 12 × 12 = 1728
僕は板壁から振り返って、塩の数を言った。
「slúun nél sénþarul dáumbar ánþa.」
男の顔色が変わった。
千を買うつもりで来たのだ。それより、七百二十八も多い。男は積み上げた箱を見上げ、女の顔を見た。女は腕を組んで、男を見返していた。持って帰れと言うなら、持って帰る。そういう顔だった。
男は、老人のほうを見た。老人は黙って筆を持っていた。決めるのは、男だ。
長いあいだ箱の山を見ていた。それから、腰の袋の中を指で探って、何かを数えるように唇を動かした。乾季が終わって霧が来れば、崖道は閉じるのだろう。そうなれば、塩はもう上がってこない。
やがて女に向かって、短く言った。
「táulim ó.」
女の口の端が、ゆっくりと上がった。
僕は、男の札に書いてあった値を、老人に読み上げてもらった。陸の千の塩につき、硬木が十本。
1728 ÷ 100 = 17.28
百の塩につき、一本。十七本と、その残り。二十八の塩が、一本に満たない分として残る。
僕は男のほうを向いて言った。
「méires ombár nél gandérul.」
それから、女のほうを向いて、箱の中の塩を指さした。
「méires slúun nél sénþarul sákul.」
それから、箱の端を指さして、首を振った。
「na gélan dáumbar ánþa sákul.」
一本に満たない二十八の塩をどうするか。女は肩をすくめて、包みを二つと、ほどいた包みから塊を四つ、自分の袋に戻した。硬木一本のために、残りの塩を値切り合う気はないらしかった。親指で節を押さえ、十七という数を確かめるように唇を動かしてから、男にうなずいた。男も、黙ってうなずいた。
僕は高原の数字で、板に三つの数を書いた。
千・七・百・二・十・八。十・七。二・十・八。
持ってきた塩が千七百二十八。受け取る硬木が十七。持ち帰る塩が二十八。渡すのは、その差の千七百だ。
老人が筆を取って、千七百二十八の下に念押しを書き添えた。
ombára が三度出てきた。十を十度、それを十度。崖の下の1000と取り違えないための、陸の千の念押しだ。
若い書記が、数え盤の石を並べはじめた。
黄色い上着の役人が、自分の数え盤を、帳場の机の上に置いた。若い書記の隣で、自分でも石を並べはじめた。十二を十二度、それをまた十二度。役人の指は、若い書記よりずっと遅かった。
ずいぶん長い時間がかかった。
戸口の外の人垣は、いつのまにか、帳場の中まで入りこんでいた。運び人も、崖の下から来た人たちも、首を伸ばしていた。
やがて、若い書記が顔を上げて、老人にうなずいた。それから少し遅れて、役人が自分の盤の石を見下ろしたまま動かなくなった。
役人は板の数字を見て、それから僕の顔を見た。
井戸の前では、一度も僕を見なかった目だった。
◆
騒ぎが収まったあと、女は僕のいる机の端にやってきた。
腰の袋から、紙の束を取り出して、机の上に広げた。帳簿だった。崖の下の人の帳簿なのに、書いてある字は、高原の字だった。
指で帳簿の一行を叩いて、僕に言った。高原の言葉だったけれど、崖の下の訛りが強かった。
「liséndes meirtauláis sóreles séndoi, liséndo már táses élais.」
訛りのせいもあって、拾えたのは一部だった。でも、女の指が帳簿の白いところを叩いていた。今日のことを、ここに、あなたの手で書いてくれ。たぶん、そういうことだ。
僕は帳簿の字を目で追っているうちに、くねくねと波打つ細い線が、文字の下に添えられていることがあるのに気が付いた。
ところどころ、波線の引いてある言葉を、一つずつ音に直していった。
知らない言葉ばかりだった。でも、その中の一つは、わかった。さっき女が、指の節を数えながら唱えていた言葉。lomé。崖の下の言葉だ。
別の行の、波線のついた言葉の横には、塩の塊の絵が小さく描いてあった。その次の行には、紫の糸の束の絵。
塩。紫。十二。
どれも、崖の下から来たものだった。崖の下の言葉で呼ばれるものだった。
そして、帳簿のいちばん上の行に、女の名前らしい字の並びがあった。その下にも、波線が引いてあった。
僕は雪の上でセルヴィーニャが引いた線を思い出していた。書記が僕の名前を聞いて紙の上に引いた線を。
これは、崖の下から来た言葉を指すのかもしれない。
だとしたら、僕の名前は、この国の人の耳には、崖の下の言葉に聞こえていたのかもしれない。だからセルヴィーニャも書記も、僕の名前の下にこの線を引いた。ドゥランドで、僕が荷として預けられたときも。どの紙の上でも、僕は崖の下から来た者として書かれてきたのだ。
僕は帳簿のいちばん上の行の、女の名前を読み上げた。
「pehu-šule...?」
女の顔から、笑いが消えた。
眉をひそめた。それから、人差し指を立てて、僕の顔の前で左右に振った。
「mé vír.」
腰の青銅の札を、指でとんとんと叩いた。名前ではなく、こっちで呼べ。そういう顔だった。それから、ふっと皺を深くして、肩をすくめた。崖の上の子どもにそれを言っても仕方ない、とでもいうように。
崖の下では、面と向かって人の名前を呼ぶのは、失礼なのかもしれない。崖の上で目上の人の名前を口にしないのと、似ているようで違う。
僕は頭を下げた。
僕の手で、書いていいのだろうか。帳場では、僕の数字を引き受ける人が要った。でも、彼女は自分の帳簿を僕の前へ押し出している。
言われたとおり、女の帳簿の今日の行に取引の数を書いた。女が帳簿の端と僕の胸を順に指さしたので、最後に、名前も書き添えた。hiro。その下に、書記がそうしたように、波線を。
女はその波線と僕の顔を、長いあいだ見比べた。それから、崖の下の言葉で、小さく何かつぶやいた。
「kine-pëlu...」
知らない言葉だった。それ以上何も言わずに、帳簿を閉じて、仲間のところへ戻っていった。崖道を下りていく背中から、潮の匂いが乾いた風に流されて、すぐに消えた。
◆
夕方、帳場の机を片づけていると、戸口に人影が立った。
緑の上着の男だった。
降ろし場の役人。僕を荷と書いた紙に、腰の札を押した人。昼間、最初の下ろしで手を上げた人。
男は帳場の中には入ってこなかった。戸口に立ったまま、机の端の僕を見ていた。それから、奥の老人に向かって、低い声で言った。
「pá ésa té?」
老人は帳面から目を上げずに答えた。
「híro.」
それだけだった。
男はしばらく僕を見ていた。何かを量るような目だった。小屋の中で、拓本の字を指でたどっていたときの目と、同じだった。
それから何も言わずに戸口を離れた。
夕日が、空になった戸口から、まっすぐ差しこんできた。乾いた風が、机の上の荷札を一枚、床に落とした。
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