第14話 段

秋が深まっていた。

朝の空気は日ごとに冷たく、硬くなった。ドゥランドの屋根という屋根の上で、刈り入れた雑穀の穂が干されていた。昼になると、あちこちの庭先から、穂を叩く殻竿の音が聞こえてきた。とん、とん、とん。乾いた籾殻が風に舞いあがって、日の光の中で金色の粉のようにきらめいた。

崖道は、一日じゅう人であふれていた。

縁の市が開いて、上り下りの荷が絶えなかった。硬木の丸太が、腕木の先から次々と崖の外へ下ろされていく。崖の下からは、塩の箱と、紫の糸の束と、干した海のものの包みが上がってくる。帳場の机の上の荷札は、毎朝、片づけたはずなのに、前の日より高く積まれていた。

僕は机の端で、毎日その山を崩していた。

荷札の数を読み、足し、掛け、高原の数字で板に書く。レウマンさんが念押しを添え、若い書記が盤で確かめる。帳場に来たばかりのころは、若い書記たちは僕を遠巻きにしていた。今は、手に負えない札が来ると、黙って僕の机の端に置いていく。

◆

その滞在の十日目の夕方、緑の上着の男が、帳場に来た。

今度は、戸口で立ち止まらなかった。帳場の中に入ってきて、レウマンさんの机の前に立った。書記たちが筆を止めて、いっせいに頭を下げた。

男はレウマンさんと低い声で話した。レウマンさんは、ときどき首を振り、ときどき机の上の帳面を指で叩いた。二人とも、ときどき僕のほうを見た。

話が終わると、男は僕の机の前まで来た。

こんな近くで顔を見るのは、ドゥランドの小屋で荷として書かれたとき以来だった。白髪まじりの髪。痩せた頬。重ねた上着の、深い緑と黄色と茶色。腰の青銅の札。

机の上の荷札の山と、僕の書いた板の数字を、ゆっくりと見下ろした。それから、帳場の奥の壁を見た。国交省から届いた書付に交じって、帳場が届け出た集計の控えも何枚も貼ってある。その数字の半分は、僕が出したものだった。

それから僕に向かって何か言った。

速かった。崖道の早口ではない。帳場の書記たちとも違う、もっと改まった言い回しだった。半分も聞き取れなかった。ただ、lisár という言葉が聞こえた。帳場の書記たちのことを、レウマンさんがそう呼ぶのを、何度も聞いていた。

書記に、という話なのだろうか。

手に持っていた炭が、指の中で少し崩れた。帳場の机の端ではなく、ほかの書記たちと同じ並びに座る。手当をもらって、借りを返す。そんな先のことまで、一瞬で頭の中に並んだ。

でも、男の顔は、少しも明るくなかった。言葉を切って、それから短く、はっきりと言った。

「éso híro fáron.尋は荷だ」

男は続けた。

「na éso þrén híroi.」

þrén。前に一度、セルヴィーニャが、僕の国にもあるのかと聞いた言葉だ。上着を重ねた人と、そうでない人。上と、下。あのときは、それくらいにしかわからなかった。na éso ... híroi の形はわかる。-oi は「〜に」の意味だ。尋には、þrén が、ない。

男は帳場の奥の壁を指さした。壁の書付の中に、一枚だけ、印の色の違う紙があった。

見覚えがあった。

ドゥランドの小屋で、書記が書き、この男が腰の札を押し当てた紙。綱の係が尋を預かる。

その紙を指さしたまま、レウマンさんのほうを見た。レウマンさんが、僕の方をちらりと見て、何かを説明しはじめた。ゆっくりと、一語ずつ区切って。僕に聞かせるために、そうしているのだとわかった。

炭のかけらを取って、帳場の板壁に線を引きはじめた。

横に短く。縦に下ろして。また横に。また下ろして。

石段だった。上から下へ、一段ずつ下りていく石段。ちょうど十段を描いたところで手を止めた。

「þrén段.」

いちばん上の段を指して言った。

「þrén nadúlen.」

na は「ない」。dúl は「下りる」。下りていない段。いちばん上の、どこからも下りていない段という意味だろう。

レウマンさんは、その段の上に、小さな椅子の形を描き足した。

「aldár.」

座る所。高い座。この国のいちばん上の人の座だ、と思った。王様のようなものだろうか。王様がいるなら、どこかに都もあるはずだ。緑の上着の男のあの改まった言い回しも、たぶんそこから来ている。

そこから一段ずつ、数えながら下りていく。ín一。dáu二。téir三。

四つ下りたところで、炭を止めて、自分の胸を指で叩いた。

「lisár書記.」

レウマンさんの段は、上から四つ下りた段、ということらしい。

それから、六つ目の段を叩いて、戸口の外の広場のほうを指さした。荷を積み上げて値を言い合っている商人たちがいた。

いちばん下の、九つ下りた段を叩いて、大石段のほうを指さした。荷を担いで石段を上り下りする運び人たち。ウェレルのいる段。

僕は、ドゥランドの小屋の緑の上着の男を思い出していた。上着を三枚重ねていた。町に来た役人は、二枚。町の人たちは、灰色か生成りの一枚。重ねた上着の数と色は、この石段のどこにいるかを、目に見える形にしたものなのかもしれない。

この国の人はみんな、この十段の石段のどこかにいる。上から何段下りているかで、何を着ていいか、どこに座っていいか、誰の名前を口にしていいかが決まるのだろう。

レウマンさんは、この国の、上と下の仕組みを説明しているのだろう。セルヴィーニャが上着を重ねる手つきで聞いた、あれのことだ。

最後に、石段の外の、何もない板壁の上に、炭で小さな点を一つ打った。いちばん下の段より、さらに下。石段から離れたところ。

僕は、この石段のどこにもいない。いちばん下の段にさえ乗っていない。

書記は四つ下りた段。運び人は九つ下りた段。運び人が書記の机に座っているのは、見たことがない。役ごとに、就ける段が決まっているのかもしれない。カーストみたいに。どの段からなら書記になれるのかは、わからない。でも、段がなければ、どの役にも就けない。

そして紙の上の僕は、荷だ。段があるかないか以前の話だった。

荷を雇う帳場はない。

男が言いたいのは、そういうことだった。

◆

僕は男の顔を見上げた。

言葉が、口の中でつかえた。言いたいことは山ほどあった。でも、言える言葉は、ほんの少ししかなかった。

僕は自分の胸に手を当てた。そして、ゆっくりと、言った。

「na ésim fáron私は荷ではない.」

男は僕を見下ろしていた。怒っているのではなかった。困っているのとも、少し違った。壁の紙を、もう一度指さした。そして、言った。

「ésa lisá férmal.字は法だ」

拓本を取った日、炉の前で、ウェレラさんが家族に向かって言った言葉。あのとき、その言葉は僕を守ってくれた。今、同じ言葉が、僕の前に立っていた。

あの紙に、僕は荷と書かれている。綱の係の預かりもの、と。それで僕は崖の下へ下ろされずに済んだ。その同じ紙が、今は、僕が人として働くことを止めている。

あの紙を書き直してもらわなければ、僕はここから動けない。けれど、誰に、どう頼めばいいのかもわからなかった。

男はそれ以上何も言わなかった。レウマンさんに軽くうなずいて、帳場を出ていった。夕日が、男の背中の深い緑を、一瞬だけ黒く見せた。

レウマンさんは、しばらく黙っていた。それから僕の机の上に、次に来たときの荷札の束をいつもどおりに置いた。

何も言わなかった。それが、レウマンさんの答えだった。

◆

次の朝、僕はウェレルと一緒に町へ帰った。十日に一度の帰り道だった。

狩人の小道は、乾いて歩きやすくなっていた。崖の下の泥の原が、朝日を受けて銀色に光っていた。でも僕はほとんど下を見なかった。足もとの石ばかり見て歩いた。

ウェレルは、何も聞かなかった。ときどき口笛を吹いて、ときどき振り返って、僕がついてきているのを確かめた。

町に着くと、家の中の空気が、いつもと違っていた。

炉の前に、見慣れないものが並べてあった。新しい毛織りの上着。白い樹皮の紙が数枚。小さな墨の壺と、細い筆。干し肉の包み。水の袋。

セルヴィーニャが、炉のそばに座って、膝の上の紙に何か書いていた。眉間に皺を寄せて、筆を持ったまま、唇を動かしていた。何度も書きかけては、首を振って、紙の端に線を引いて消していた。

僕が戸口に立つと、セルヴィーニャは顔を上げた。ぱっと紙を胸に抱えて隠した。

「lísim私は書く mélnan.」

何を書いているのかと紙をのぞきこもうとすると、セルヴィーニャは紙を抱えたまま、ぷいと横を向いた。見せてはくれなかった。

◆

その夜、炉のまわりで、ウェレラさんが僕に話してくれた。

「géla行く endríña子ども téあの an þráin高いところ?, an glünlúinei氷の…. géla fleuréla silóurフレウレラもついていく.」

ウェレラさんは顎を上げて、遠くを見る目をした。あの子は高いところへ行く。glün- は氷だから、凍る季節が来る前に、ということらしい。高いところというのは、帳場の戸口から晴れた日に北のほうに遠く見える山並みのことだろうか。この国の人が、天にいちばん近いと思っていそうな場所だ。

「an mónoi石の上で þráinos高みの, léuna endríña子ども ín一 mélnan brólenan作った míres aursárail. esósだから na ésaではない dóulinもう endríña子ども.」

ウェレラさんは手のひらを空へ差し上げていた。年の始まりの朝、星へ年を告げたときと同じ手つきだった。何かを、上へ捧げるのだ。

だから、もう、子どもではない。最後の一言だけは、はっきりわかった。

mélna は知らない言葉だった。

「pó éso mélna?」

ウェレラさんは少し考えて、それから節をつけて、短い言葉をいくつか口ずさんだ。歌のような、祈りのような。フレウレラさんが横から言葉を足した。

「sánある virái言葉 séurilai te auríþan上げる élais an ilánais星々へ. sán snírai少ない es lundés歌, séurilai es aurvirés.」

星へ上げる、言葉。歌より、少ない。

詩だ、と思った。セルヴィーニャがさっき書いては消していたのは、詩だったのだ。

それからウェレラさんは、セルヴィーニャのほうを手で示して、言った。

「ésa selvíñaセルヴィーニャは þelíña.」

þelíña。聞いたことのない言葉だった。でも、聞いたことのある音でできていた。þél、名乗る。それから -íña。セルヴィーニャの名前の終わりと、同じ音だ。

「lúin hóina, na ésa endríña té dóulin selvíña帰ってきたら、あの子はもう selvíña じゃない. un þráinoi táula þelán ívelan高みで新しい名前をもらってくる.」

僕の頭の中で、何かがつながりはじめた。

selvíña は、子どもの名前なのだ。

子どもが、北の高い所へ行って、詩を捧げる。それで、大人になる。大人になったら、子どもの名前ではなく、大人の名前になる。

僕はセルヴィーニャを見た。彼女は膝を抱えて、炉の火を見ていた。耳が少し赤かった。

それから、何か月も前の、井戸端の夜を思い出した。

僕は家族と同じように、selvíña と呼んだ。女たちが笑った。セルヴィーニャは真っ赤になって、僕を置いて帰ってしまった。そのあとで、家の中でなら呼んでいい、外では té、とセルヴィーニャ自身が決めてくれた。僕はわけもわからないまま、その決まりを守ってきた。

子どもの名前は、家族が呼ぶものなのかもしれない。家族でもない男が人前で、もうすぐ大人になる女の子を、家族しか使わない子どもの名前で呼んだ。

たぶん、そういうことだったのだ。何か月もかかって、やっとわかった。

それなら、家の中でなら呼んでいいと言われたのは。

僕は、炉の火を見ているセルヴィーニャの横顔を見た。あのとき、ふくれっつらで床を指さしたこの子は、落ちてきてひと月あまりの、言葉もろくに話せない僕を、もう家の中の者に数えてくれていたのだ。

◆

次の朝早く、セルヴィーニャは発った。

フレウレラさんが一緒に行くことになっていた。北の高みまでは、何日もかかるらしい。二人とも、厚い毛織りの上着を重ねて、背中に小さな荷を負っていた。

空は、まだ暗い青だった。東の山の端だけが、うっすらと白くなっていた。町の家々の屋根に霜が降りて、白く光っていた。吐く息が、白かった。

戸口に、家族が並んだ。ウェレラさん。ヒルヴァン。ウェレル。それから、僕。

ウェレラさんが、セルヴィーニャの両手を取って、何か長い言葉を唱えた。ヒルヴァンは、セルヴィーニャの肩の荷の紐を、黙って締め直した。ウェレルはセルヴィーニャの頭をぐしゃぐしゃとかき回して、脛を蹴られた。

セルヴィーニャが、最後に僕の前に立った。

僕は何を言えばいいか、考えていた。

崖の下へ向かう人には、dulénde fláinin。ウェレラさんが、僕をドゥランドへ送り出したときに言った言葉。軽く、下りよ。

でも、セルヴィーニャは下りるのではない。北の高い所へ、上っていくのだ。

それに、あの挨拶があった。人と会ったときの、改まった挨拶。井戸端で覚えた。役人には返してもらえず、崖の下から来た女には返してもらえた。

息が、昇りますように。

詩を空へ捧げに行く人に、これ以上の言葉はない気がした。

僕は頭を下げた。

「aurénde selvá息が昇りますように!」

セルヴィーニャは笑った。今まで見たどの笑い方とも違う、静かな笑い方だった。

「an ilánais.星々へ」

背を向けて、フレウレラさんと並んで歩きだした。霜の降りた道に、二人分の足跡が、北へ向かって続いていった。

◆

その夜、炉のまわりは、いつもより広かった。

ウェレラさんと、ヒルヴァンと、ウェレルと、僕。四人で炉を囲んで、粥をすすった。

僕は椀を置いた。

言わなければいけないことがあった。

ドゥランドの帳場のこと。緑の上着の男のこと。書記にしたいと言われたこと。そして、それができないと言われたこと。

言える言葉は、少なかった。だから、男が言った言葉を、そのまま返した。

「na éso þrén híroi.尋には段がない」

炉のまわりが、静かになった。

ウェレルの手が、椀の上で止まった。ヒルヴァンは、炉の火を見ていた。ウェレラさんは僕の顔を見ていた。

誰も、何も言わなかった。

薪がはぜて、火の粉が一つ、天井の煙穴へ昇っていった。

ウェレラさんは長いあいだ、僕を見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がって、戸口の外へ出ていった。

戸の隙間から、冷たい夜気が流れこんできた。

外は、星が降るような夜だった。

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