小説
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朝、ドゥランドの大石段を下りると、石の縁という縁に霜が白く貼りついていた。踏むと、靴の下で細かく砕ける音がした。崖の下から吹き上げてくる風はもう湿っていなかった。北から下りてくる風と崖の縁でぶつかって、渦を巻きながら、乾いた冷たさだけを運んでくる。息を吸うと、鼻の奥がきんと痛んだ。
帳場の小屋の煙出しから、薄い煙が真っすぐに昇っていた。
僕は戸口の前で一度立ち止まった。
系譜に書かれてから、七日がたっていた。国交省の札ができあがるのを、町で待った七日だった。そのあいだに、朝の霜は一日ごとに厚くなった。
二十日あまり前、僕はこの戸口を、荷として出ていった。今朝は、ドルヴァルの尋として入る。
何が変わったのか、外から見てもわからない。上着も、履き物も、同じだ。違うのは髪くらいだった。町を出る朝、ウェレラさんが僕を炉の前に座らせた。襟にかかるほど伸びた髪を後ろへ集めて、細い革紐できつく結んだ。落ちてきたときの短い髪が、ようやく束ねられる長さになっていた。首の後ろで、筆の穂先くらいの短い束が、ちくちくと揺れた。
でも、それも中の人たちにはどうでもいいことだろう。変わったのは、白い建物の棚の奥にしまわれた一本の巻物の、いちばん下の一行だけだった。
たった一行だ。それなのに、戸口の前で足が止まった。中の人たちに、その一行が見えるわけでもないのに。
僕は息を一つ吐いて、戸を押した。
◆
帳場の中に入ると、書記たちが筆を止めて、いっせいに顔を上げた。墨と、乾いた木と、炉の灰のにおい。二十日前と同じにおいだった。
いちばん奥の机に、レウマンさんがいた。その隣に、緑の上着の男が立っていた。
緑の上着の男は、僕を見ると、机の上から何かを取り上げた。手のひらに載るくらいの、小さな木の札だった。脂の木の薄い板で、端に穴があいていて紐が通してあった。
男は、その札を僕に差し出した。机越しではなかった。机の前まで出てきて、手から手へ渡す距離だった。
「kráil plíndo só.」
受け取って札の表を見た。字が刻んであった。焼きごてで押した、小さな印もあった。帳場の書付の、最後にいつも押してある印と同じ形だった。
国交省の札だ。
縁の市で、崖の下の女が腰にさげていた市の札と同じだ。崖の下の人でも、あの札があれば崖の上で商いができるらしかった。僕の段は九つ下りたままだ。それでも、この札をさげているあいだは、書記の見習いとして机に座れるのだろう。段の足りない分を、札が埋めてくれる。
札の裏を返すと、もう一行、字が刻んであった。
札を渡した者の名前だった。帳場の壁に貼られた書付の、いくつかの最後にあるのと同じ字の並び。僕は字を一つずつ音に直した。
áuran。
アウラン。aurá、縁鷲と、よく似た響きだった。崖の縁から吹き上がる風に乗って、羽ばたかずに高く昇っていく鳥。高いところから、地上のものを量るように見下ろす目。
ぴったりの名前だ、と思った。
もちろん、口には出さなかった。
僕は札の紐を腰に結んで、男に頭を下げた。札は思っていたより軽かった。歩くたびに腰で小さく跳ねて、上着の上からこつこつと当たった。
男は、軽くうなずいただけだった。それからレウマンさんに何か一言言って、帳場を出ていった。
◆
レウマンさんは、自分の机の端を見た。僕が毎日、荷札の山を崩していた場所だ。荷札の束が一つ、いつもどおりに積んであった。
レウマンさんはその束を取り上げると、書記たちの並びの、空いている机の上に置き直した。
座れ、ということらしかった。
机の端ではない。ほかの書記たちと、同じ並びだ。
僕は机の前に座った。隣の机とのあいだは、腕一本ぶん。前の机の書記の背中が見えた。机の板には、前に座っていた誰かの墨の染みが残っていた。
レウマンさんは、それから、その並びのいちばん端に座っている若い書記を指さした。
僕が来たばかりのころ、帳面の頁の合計を出して、九十を落とした、あの若い書記だった。
レウマンさんは若い書記に向かって何か短く言った。それから僕に向かってあごをしゃくった。あいつにつけ、ということらしかった。
若い書記が、立ち上がった。
僕より、二つか三つ年上だろうか。背は高くないが、背筋がやけに真っすぐだった。上着は三枚。灰色の上に薄い黄色、いちばん上に淡い緑を重ねていた。帳場のほかの書記たちより、生地が一段いい。髪をきちんと後ろで結っていて、一筋も乱れていなかった。指の先は、レウマンさんほどではないけれど、もう墨が染みついていた。
若い書記は、僕の前まで来ると、胸に手を当てた。
そして一息に言った。
「duþélim sélvanan, an fóndaros ráimaros dúlenan dáumbar téir lóurul, dúlenan fáir þrénul.」
長かった。
最初の duþélim はわかった。七日前、僕自身が口にした言葉だ。名乗らせていただきます。sélvanan は、名前だろう。セルヴァン。
そのあとが、速くて、長すぎた。dáumbar téir は二十三。lóurul の lóur は、系譜の唱えの中で何度も挟まっていた音。最後の fáir þrénul は、四つの段。
つまり、どこかの家の二十三代目、四つ下りた段の者だ、と名乗っているのだ。
四つ下りた段。レウマンさんと同じ段だ。僕の五段上ということになる。
セルヴァンは、名乗り終えると、僕の顔をじっと見た。
僕は慌てて胸に手を当てた。
「duþélim híro, dórvaros, dúlenan réum þrénul.」
セルヴァンの眉が、ぴくりと動いた。それから口の端が上がった。笑ったのか、呆れたのか、わからなかった。
そしてしゃべりはじめた。
◆
「selvána aulisár sérin. rímbes tás rimbáis si lísim ném freimviráis. esós vóilsin plíndul, líses rimbáis. ké þéiles?」
速い。そして長い。
ウェレルの崖道の早口とも違った。ウェレルの言葉は、終わりの音がぶつぶつと切れる。セルヴァンの言葉は、終わりの音まできちんと言う。きちんと言うのに、速い。一つの言葉が終わる前に、次の言葉が始まっている。息つぎがない。
半分は、知っている言葉だった。残りの半分は、よくわからない。
それから最後に、僕の顔をのぞきこんで、何か聞いた。問いの調子だった。
答えを待っている。
ké で始まるのだから、何かを聞かれたのだ。でも þéiles が、わからなかった。ヒルヴァンが言った þíles に似ている。似ているけれど、少し違う。僕は口を開いて、閉じた。
セルヴァンは僕が黙っているのを見ると、首をかしげた。それからゆっくり言い直してくれる……かと思ったら、そうではなかった。同じ速さで、別の言い方で、もう一度最初からまくし立てた。
僕は拾った言葉を、頭の中で並べた。お前が数を数え、私が念押しを書く。荷札を読んで、数を書け。
僕が来たばかりのころ、帳場でやっていたことだ。僕が数え、レウマンさんが念押しを書き、若い書記が盤で確かめる。その念押しを、これからはセルヴァンが書くのだ。書記の方がそう決めた、と。
最後の問いは、たぶん「わかったか」だ。
僕はうなずいた。
満足そうにうなずき返して、自分の机に戻っていった。
合っていたのかどうかは、わからなかった。
◆
昼過ぎまでに、セルヴァンは僕に向かって三度しゃべった。
三度とも長くて、速くて、三度とも半分しかわからなかった。
二度目は、荷札の束を僕の机に置きながら、一息にしゃべった。
「órelei té, ném na rímbim rimbáis plánes séurilin. téir órelais na selvána aulisár virán némei. na tóro ó es táses, salóur ném ansóinim ó.」
途中で、帳面の、合計の、と言うような身振りをした。それから、自分の胸を指で叩いて、レウマンさんの机のほうへあごをしゃくると、天井を仰いで、大げさにため息をついてみせた。
何の話なのか、少しずつ見えてきた。
あの日のことだ。帳面の合計の誤りを、僕が見つけた日。あの合計を出したのは、セルヴァンだった。レウマンさんはそれからしばらく、セルヴァンと口をきかなかった。
セルヴァンはそのことを、僕に言っているのだ。恨み言なのか、冗談なのか、口ぶりからはわからなかった。最後のほうは、お前のせいではない、と言っているようにも聞こえた。でもその目は、笑っていた。
僕はどう返せばいいのかわからなかった。だから、とりあえず、頭を下げた。
セルヴァンは目を丸くした。それから声を上げて笑った。帳場の書記たちが、いっせいに顔を上げた。レウマンさんが、机の奥から一言、低い声で何か言った。セルヴァンは首をすくめて黙った。
黙ったのは、ほんの少しのあいだだけだった。
◆
帳場の仕事は、数を出すことだけではなかった。
荷札を持ってくる運び人や商人に、指図をするのも、書記の仕事だった。札の書き方が違えば、書き直させる。念押しが抜けていれば、足させる。印がなければ、押させる。
午後、運び人の一人が、念押しの抜けた荷札を持ってきた。顔見知りの、大石段の運び人だった。
僕は札を突き返して言った。
「kráil plíndo!」
書き直してこい、という意味だ。
運び人は僕の顔を見ると、にやりと笑って、札を受け取って出ていった。僕の言い方に、何の文句もなかった。
その次に来たのは、色のついた上着を三枚重ねた商人だった。毛織物の束の荷札。数の念押しが、やはり抜けていた。
僕はさっきと同じように、札を突き返した。
「kráil plíndo!」
商人の顔が、凍りついた。
帳場の中の空気が、一瞬で変わった。書記たちの筆が、いっせいに止まった。
商人は僕を見下ろしていた。色のついた上着を三枚、重ねていた。何段下りた人なのか、僕には見分けがつかない。でも、生成りの一枚の運び人とは違う。ここでは、言い方を変えなければいけない相手だ。
しまった、と思った。何が悪かったのかは、まだわからなかった。でも何かが、ひどく悪かったことだけはわかった。
横から、セルヴァンがすっと割りこんできた。
商人に向かって頭を下げた。それから、さっきまでの早口が嘘のような、ゆっくりした、歌うような言い方で、何か言った。
「krailénde plíndo.」
kráil ではなく、krailénde。
聞き覚えのある終わり方だった。dulénde。aurénde。崖を下りる人を送る言葉と、上の人に向ける挨拶。-énde。
セルヴァンは商人の手に、両手で札を返した。商人は鼻を鳴らして、それでも札を受け取って出ていった。
商人が出ていくと、振り返って僕をにらんだ。
そしてしゃべった。
「mé vír éndrei áurenei ré kráil. éndrei náurenei vír ré kráil si éndrei áurenei vír ré krailénde. orvél dúla virá táses du dálor.」
また長かった。
ただ、何を言っているのかはわかった。
彼はしゃべりながら、手のひらを床の近くに下ろして、kráil、と言った。それから手のひらを頭の上に上げて、krailénde、と言った。下の人には、kráil。上の人には、krailénde。
命令の形は、上の人には使わない。上の人には、-énde で、そうなりますように、と頼むのだ。崖を下りる人を送る dulénde が、軽く下りますように、だったように。
僕は口の中で繰り返した。krailénde。krailénde。
セルヴァンは僕の口の動きを見て、満足そうにうなずいた。それからまた早口で、何か付け足した。今度は一つもわからなかった。
◆
十日目の夕方、帳場で、初めての手当を受け取った。帳場の手当は、十日ごとに出る。
雑穀だった。一枡。僕が一人で十日のあいだに食べる粥の分だ。それと、穀物商への借りを返すための書付が一枚。手当は全部で六枡で、残りの五枡は帳場から直に穀物商へ回す、という書付だった。
レウマンさんが、書付を僕の机に置いて、それから筆を僕の手に握らせた。
自分で書け、ということだった。
僕は書付に、返す数を書いた。高原の数字で。それからその下の行に、念押しを書いた。字で。
五。lím。
語末の読まない字のことを、思い出しながら書いた。lím は、綴りでは limi と書く。終わりの i は読まない。碑の funelara と同じだ。終わりの字が a ではなく i なのは、lím だけの癖らしい。セルヴィーニャの灰の上で、何度も書き直させられた。
念押しの括りで、前と後ろを挟んだ。
レウマンさんが、書付をのぞきこんだ。数字と、念押しを、交互に指でたどった。
「vérin.」
五枡。
借りは七十壺。帳場の書付では、雑穀は一壺を十枡で数える。だから、七百枡。そのうちの、五枡。
残りは六百九十五枡。十日ごとに五枡ずつ返せば、百三十九回。去年の帳面をめくって数えると、帳場が開いていたのは、冬と霧の季節を除いた一年におよそ二十五回。五年と、半分。
倉の前で、頭の中でした計算と、同じ答えだった。長い。でも、終わりのある長さだった。
それに、最初の五枡は、僕の手で書いた。
◆
その夜、帳場に残って、昼のあいだに溜まった荷札を帳面に写していた。
ほかの書記たちは、日が落ちる前に帰っていった。帳場に残ったのは、僕とセルヴァンだけだった。外では風が出て、戸板がときどき、がたりと鳴った。
灯の下で、荷札を一枚ずつ読んでいく。品名。等級。数。念押し。送り主。検めの印。硬木の丸太は、荷札がつけられないので、木口の焼印を写した書付が回ってくる。林野庁の印。谷のしるし。等級のしるし。
谷のしるしは、三つあった。
狼の顔。熊の顔。それから丸い目の、耳のとがった獣の顔。山猫だと、セルヴァンが言っていた。たぶん。
僕は書付を谷のしるしごとに分けて、帳面の日付と並べていった。谷を出た日。降ろし場に着いた日。
しばらく並べていて手が止まった。
山猫の谷の丸太だけ、谷を出てから降ろし場に着くまでの日数が、ほかの二つの谷の、ほぼ倍かかっている。
丸太が降ろし場に着くのは、どれも冬の日付だった。凍った地面の上を、橇で引いてくるのだ。僕は帳面の頁を何枚も戻って、去年の分も、その前の年の分も確かめた。どの年も、同じだった。狼の谷からは、だいたい五日。熊の谷からも、五日か六日。山猫の谷からだけは、十日。冷えた年の日付のものは、十二日、十三日。
どうしてだろう。
隣の机で、セルヴァンが、灯を片づけていた。僕は山猫のしるしの書付と、狼のしるしの書付を並べて、日数のところを指で叩いた。十と、五。
「kerél fíñeles, ombár órelais. kerél dráunes, lím órelais. es pós?」
セルヴァンは二枚の書付をのぞきこんだ。
それから灯を机に戻して腰を下ろした。目が、きらきらと光っていた。話せることを見つけた人の目だった。
「válsin un kerélos, gélo gandér kerélos fíñeles or órunan, duói préendin traumbél te préndo ó louvrúndo, tóro du séndo. glünlúin, glǘno traumbél, esós órelai te ráumo gandér élail, sán bróusai an þailúinei.」
一息だった。
山猫の谷の硬木は、日の出の側へ行く。それから、何かをして、ここへ来る。冬には、何かが凍る。だから日が多くかかる。
わからない言葉が三つあった。traumbél。préendin と préndo。louvrúndo。どれも、帳場では聞いたことのない言葉だった。セルヴァンはしゃべりながら、机の上に指で地図を描いた。指が、くねくねと曲がり、一度大きく横に逸れて、何かを渡るように跳ね、それからようやく降ろし場の位置に戻ってきた。
遠回りしている。
山猫の谷からは、まっすぐ降ろし場へ来られないのだ。どこかで大きく曲がって、何かを渡って来る。
最後に、自分の両腕を抱えて、ぶるっと震えてみせた。冬。何かが凍って、もっと遅くなる。
僕は机の上の、セルヴァンの指の跡を見つめていた。机の埃の上に、指の道が白く残っていた。
降ろし場は、ここ。ドゥランドの少し日の出の側。崖の縁は、机の手前の端だ。
では、僕たちの町はどこだろう。
ドゥランドから、狩人の小道を日の入りの側へ、半日。机の上なら、手前の端に沿って、指を左へずらしたあたりになる。
セルヴァンの指が最初にくねくねと曲がりはじめたあたり。山猫の谷を出てすぐのところ。そこは、ちょうどその上だった。
あの地図が、どれくらい正しいのかはわからない。指で描いただけの地図だ。
でも、もし山猫の谷から曲がらずに、まっすぐ崖のほうへ下りてきたら。
funelóraに出るんじゃないか。
灯の火が、ゆらりと揺れた。セルヴァンが、まだ何かしゃべっていた。僕はもう聞いていなかった。
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