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その朝、降ろし場の巻き胴が鳴らなかった。
いつもなら、夜明けとともに崖の縁から聞こえてくる音がある。巻き胴の軸がきしむ低い音と、綱が車輪の溝をこすって走る乾いた音。帳場の机にいても、その音で今どの丸太が崖のどのあたりにいるのかがわかるくらいだった。
その朝は、風の音しかしなかった。
大石段を下りきると、降ろし場の綱が白く凍っていた。夜のあいだに崖の下から吹き上げた霧が、綱の撚りの一本一本にまとわりついてそのまま凍りついたのだ。指ほどの太さの氷の房が綱からいくつもぶら下がっていた。運び人の頭が巻き胴の前で腕を組んで首を横に振った。
冬が来たのだった。
帳場に入ると、レウマンさんはもう帳面を閉じていた。机の上には、紐でくくった書付の束が三つ。乾季の前半の勘定を締めたものだった。
レウマンさんは僕の顔を見て、窓の外の凍った綱をあごで示した。
「gléuno fúnel. esós na tóran plíndul. hóin, híro. tór dulúin.」
綱が止まれば、帳場に来る荷札も止まる。冬のあいだ、書記見習いのする仕事はない。
僕は頭を下げて、一つだけ頼んだ。
「ké trálim plíndul kerélos fíñeles?」
レウマンさんはしばらく僕を見ていた。それから黙って束を一つ、僕の前へ押してよこした。
僕は板に、山猫の谷の丸太の日数を、一枚ずつ写していった。谷を出た日と、降ろし場に着いた日。そのあいだの日数。林野庁が木口に押した等級の印も、ついでに写した。割れのある丸太には、等級外の印が押してある。
、、1、、2、3。
隣の机で、セルヴァンが何かしゃべりながら自分の荷物をまとめていた。都へ帰るのだそうだ。最後に僕の肩を叩いて、また長い文を一息に言った。わかったのは、最後の dulénde だけだった。
僕も、dulénde、と返した。
セルヴァンはくすぐったそうな顔をして笑った。
言ってから、気づいた。セルヴァンは都へ帰るのだ。崖を下りるのではない。北の高いほうへ、上っていく。セルヴィーニャを送り出した朝、同じことを考えたばかりだったのに。
言い直す前に、セルヴァンはもう戸口を出ていた。
◆
ウェレルと二人で、狩人の小道を町へ帰った。
縁の肩の石の原は、一面霜で白かった。踏むたびに足の下で霜柱が崩れて、しゃりしゃりと鳴った。苔は凍って、色が抜けたように灰色になっていた。低く曲がった木の枝の先に、白い氷の粒がついていて、日が当たるとそこだけちかちかと光った。
空は、硬いくらいに青かった。
吐く息が白い。白い息は、すぐに風にちぎれて、上へ昇っていった。
ウェレルはほとんどしゃべらなかった。運び人の仕事も、綱が止まれば細る。崖道を上り下りする者はいるけれど、荷はずっと少ない。ウェレルにとっても、冬は家に帰る季節だった。
昼過ぎに、町の大きな倉の屋根が見えてきた。
その手前で、ずっと北のほうから低い水の音が聞こえていた。町の日の入りの側を流れて、崖の縁から細く長い一本の滝になって落ちる川だ。この季節の川は、もう半分凍っていた。岸の石という石が、ふくらんだ白い氷に包まれていて、そのあいだを黒い水が細く急いで走っていた。
僕は川の上流を見た。
その川は、縁の肩を北へさかのぼって、遠くの黒い森の中へ消えていた。
セルヴァンの指の地図を思い出した。山猫の谷の丸太は、森を出ると、大きく日の出の側へ曲がる。何かを渡って、ドゥランドまで来る。十日かけて。
でもこの川をまっすぐさかのぼったら、どこへ行くのだろう。
◆
家では、ウェレラさんが炉の前で糸を撚っていた。
フレウレラさんはいなかった。この前帰った夜に木の箱を開けて糸や杼を出していたのは、この支度だったのだ。冬のあいだ、毎年メウルの機場へ毛織物を織りに出るのだと、セルヴィーニャが機を織る手つきをしながら教えてくれた。去年、僕が落ちてきたときも、フレウレラさんは留守だった。あれから一年がたつのだと、炉の火を見ながら思った。
セルヴィーニャは炉の向こうで、板に字を彫っていた。碑の字だった。僕がドゥランドにいるあいだに、子どもたちに教えるための手本を作っていたらしい。僕の顔を見ると手を止めて、帳場の話をせがんだ。
僕は写してきた板を見せた。
山猫の谷の丸太は、十日。狼の谷と熊の谷は、五日か六日。それから北を指さして、聞いた。
「ké ráines kerél fíñeles?」
セルヴィーニャは板の数字を見て、首をかしげた。
「nés. éso un dravénei. na válsim ném téndoi.」
ヒルヴァンが炉の脇で槍の穂を研ぎながら、顔を上げずに言った。
「áur alfilrúndo. éso trúin, un dravénei.」
それから、もう片方の手のひらで、北の森の、少し日の入り寄りのあたりを示した。
白糸川をさかのぼった先。
やっぱり、そうだった。
夜、炉のそばで顎をかいていると、ウェレルが僕の顔をのぞきこんだ。にやりと笑って、僕の顎の先をつまんだ。
自分で触ってみて、わかった。一年のあいだ伸ばしっぱなしだった産毛の中に、太くて硬い毛が何本か混じっていた。いつの間に生えたのだろう。
ウェレルは腰の小刀を抜いた。僕が身を引くより先に、セルヴィーニャが僕の膝に布を広げた。ウェレラさんは糸を撚る手を止めずに、こちらを見ていた。
ウェレルは僕の顎をつかんで上を向かせ、刃を当てた。じょり、と音がした。刈られた毛が、膝の布の上にぱらぱらと落ちた。思ったより痛くなかった。ウェレルの手つきは、背負い枠の縄を締めるときと同じで、少しも迷わなかった。
終わると、ウェレルは僕の頬を手のひらでぺちんと叩いて、早口で何か言った。セルヴィーニャが吹き出した。半分しか聞き取れなかった。大人がどうとか言ったらしい。たぶん、ろくなことではない。
セルヴィーニャが布の端をつまんで、刈った毛を炉の火にはたき落とした。ちりちりと、短い音がした。
◆
それから七日目の昼に、山猫の谷の人たちが来た。
最初に気づいたのは町の犬だった。北の道のほうを向いて、いっせいに吠えはじめた。僕が戸口から出ると、白糸川沿いの道を黒い点がいくつか下りてくるのが見えた。
近づくにつれて、それが人と、橇だとわかった。
男が二人、橇の綱を肩にかけて引いていた。橇の上には丸太が三本縄でくくりつけてあった。黒っぽい、ずっしりとした丸太だった。橇の後ろを、もう一人小さな人影がついてきていた。
町の人たちが、ぽつぽつと家から出てきた。倉の前の広場に、自然に人が集まった。
橇を引いていた男の一人は、見上げるほど大きかった。ヒルヴァンより頭一つ高い。肩幅が戸口ほどもあった。厚い毛皮の上着を着て、腰に斧を差していた。髭が凍って、白く固まっていた。
男は、広場の真ん中で橇を止めると、大きく息を吐いた。白い息が、煙のように昇った。
それから腹の底から出すような声で、言った。
「dóulim alfilrúndo. ésim éndra kerélos fíñeles.」
声が倉の壁に当たって跳ね返ってきた。男は北の森を親指でぐいと指して、もう一度言った。
「fíñelkeréla!」
fíñel と、keréla。山猫の谷のことを、ひと続きに言ったのだ。
keréla。セルヴァンは kerél と言っていた。帳場の帳面でも谷はいつも kerél と書かれていた。この男は、そのあとに、もう一つ a をつけて言う。
funelóra と同じだ。
ドゥランドの人たちは、この町のことを funelór と呼ぶ。町の人だけが、最後の a まで言う。この男の話し方は、ドゥランドの人の話し方よりずっと町の人の話し方に近かった。言葉の端を落とさない。
橇の丸太の木口に、焼印が押してあった。丸い目の獣の顔。山猫のしるしだった。帳場で、何百枚も見たしるしだ。
人垣を割って、太った男が出てきた。最初の夜に僕を指さして何か言い、寄り合いの夜には僕に雑穀を回すなと言った、あの男だ。倉の炉の主で、町の人たちは élþan と呼んでいる。太った体を毛皮に包んで、腕を組んで、大男をじろりと見上げた。
「es pós táisa éndra dravénes?」
どうして来た、と聞いたのはわかった。最後の語はわからなかった。
大男はエルサンを見下ろして、にやりと笑った。それから答えないで、エルサンの肩ごしに、後ろの倉を見上げた。
町でいちばん大きな倉だった。石の壁は厚く、屋根は高い。中には、町の炉が持ち寄った雑穀と、干し草と、薪が入っている。それでも中はがらんとしていると、ウェレルが前に言っていた。こんなに大きな倉が何のために建てられたのか、今の町の人は知らないらしい。
大男は倉の壁に手を当てた。分厚い手のひらで、冷たい石を撫でた。
「fíndim ré anlúinei, dulíþan fáronul es séndos.」
昔は、ここから荷を下ろした。そう言ったのだと思う。
倉の戸口の陰で、誰かが身じろぎした。
倉の老人だった。数え板を動かす、白いひげの年寄り。僕が来たばかりの冬に、炉の前で岩棚の数え歌を歌ってくれた人だ。
老人はゆっくりと立ち上がった。白いひげの奥から大男を見上げて、それからかすれた声で歌いはじめた。
「ín, glünóra. dulénde fláinin.」
ゆっくりした拍子だった。足を踏みしめるような。一つ数えるたびに、老人は片手を一段ずつ下げていった。
「dáu, krambóra. dulénde fláinin.」
広場が、静かになった。犬まで黙った。
四つ目と五つ目の棚で、老人はひと息おいて brúumo と言った。崩れ落ちた、と。
歌が終わると、大男は長いあいだ黙っていた。それからさっきまでとは違う、低い声で言った。
「lúnda andaulóura némes silóur lundán sé, salóur sán virái eulérenai snírin.」
何を言ったのかはよくはわからなかった。でも、それを聞いた老人の皺に埋もれた目が、少しだけ大きくなったのは見えた。
◆
「þélim sílano.」
大男はシラノと名乗った。sílan ではなく、sílano。最後の o まで、はっきり言った。
山猫の谷の、樵の頭なのだという。橇を引いていたもう一人の男は、谷の樵の一人だった。
シラノの話は、全部はわからなかった。でも、セルヴァンの早口より、ずっと聞き取りやすかった。言葉の端が残っているぶん、一つ一つの語の切れ目が見えるのだ。それにシラノは大きな手で、何でも身振りにした。
わかったところをつなぎ合わせると、話の筋は、こうらしかった。
重い丸太は、冬に、凍った地面の上を橇で引いて運ぶ。ほかの季節では、地面がやわらかくて橇が沈む。丸太を動かせるのは、一年のうち冬だけなのだ。
ところが今年は冷える年で、冬に入ってすぐ、丸太の通り道のどこかが凍りついた。シラノは両手を斜めに傾けて、その上を何かがつるりと滑り落ちるしぐさをしてみせた。丸太を積んだ橇は、そこを越えられないらしい。
冬が終われば、氷も解ける。でもそのときには、地面も解けて、丸太道は泥の川になる。橇はもう動かない。谷に積み上げた丸太は、次の冬まで、まる一年、待つことになる。
それで、ほかの道を探しに来た。白糸川沿いに、橇で、試しに三本。
僕は自分の板を取り出した。凍りついたのがどこなのか、聞きたかった。でも、先に確かめたいことがあった。
「es kerélos fíñeles du dulándo, gandér, pómbar órelais?」
シラノは太い眉を上げた。板をのぞきこんで、数字を太い指でなぞった。
「ombár órelais. tráimelei sé, gléuno traumbél, esós na dúlan gandérul es kerélos.」
十日。僕の板と同じ数だった。
それから、traumbél。セルヴァンも言っていた、知らない言葉だ。
「pó éso traumbél?」
シラノは両手で弓なりの形を作った。それから、その上を指の足で歩かせて、向こう側へ渡してみせた。
橋だ。
山猫の谷の丸太は、どこかで橋を渡ってドゥランドへ来る。その橋が凍った。凍った橋を、丸太を積んだ橇は渡れない。
「si es kerélos fíñeles du séndo?」
シラノは、にっと笑った。それから太陽を指さして、指で空に半分だけ弧を描いた。
「éso déral óreles.」
山猫の谷から、この町まで、半日。
山猫の谷からドゥランドの降ろし場まで、十日。冬は、それより長い。そもそも今年は、着くことすらできない。
僕は板の数字を見つめた。
十日と、半日。二十倍だ。
それがいま、町の大きな倉の前に丸太が三本ある理由だった。
シラノは僕の顔を面白そうに眺めていた。それから大きな手で、僕の背中を一つ叩いた。息が止まるほどの力だった。
◆
橇の後ろについてきた小さな人影は、そのあいだ、ずっと丸太のそばにいた。
女の子だった。
僕より小さい。年も、たぶん下だ。体つきが細く、手首が枝のように細かった。髪は短くて、肩にも届かない。その上に灰色と茶のまだらの毛皮の頭巾をかぶっていた。頭巾の両脇に、房のような毛のついた小さな三角の耳が残っていた。山猫の毛皮だった。
足は、裸足だった。
霜で白い石畳の上に、平気な顔で立っている。足の甲が、寒さで赤くなっていた。それでも少しも震えていなかった。
女の子は、丸太を叩いていた。
指を曲げて、関節の背で、こつ、こつ、と。一本の丸太を端から端まで、少しずつ場所をずらしながら叩いていく。叩くたびに、頭巾の耳ごと頭を丸太に寄せた。目を半分閉じていた。
こつ。こつ。こつ。
一本目を叩き終えると、二本目へ移った。二本目も、端から端まで。
三本目の、真ん中より少し先のところで、手が止まった。
もう一度叩いた。こつ。少しずらして、こつ。また戻って、こつ。
僕には、どれも同じ音に聞こえた。
女の子は丸太から顔を上げて、シラノを呼んだ。それから三本目の丸太を、手のひらで二度叩いた。
「gandéra só, kráiso un méndalei ós.」
短い言葉だった。gandéra。帳場で何百回も聞いた、硬木の gandér。この子も、語の端に a を残して言う。
シラノの顔から、笑いが消えた。シラノは丸太のそばへ行って、女の子が叩いたところを自分でも叩いた。首をかしげた。もう一度叩いた。それからため息をついて、何か言った。
僕は思わず聞いていた。
「pó?」
その子は僕を見た。
鋭い目だった。茶色の、少し吊り上がった目で、まばたきもせずに僕を見た。見知らぬ獣を見るような目だった。それからふいと目をそらして、答えなかった。
かわりに、シラノが答えた。シラノは頭巾の上から、小さな頭に大きな手をぽんとのせた。
「ésau fíndou dubréles némes fíndou tókales.」
fíndou は耳だ。頭巾の耳の下の本物の耳を、シラノが指でつまんでいた。それから、tókal。
知らない語だった。
「pó éso tókal?」
シラノはにやっとした。それから口をとがらせて、指を一本くちばしのように突き出して、その指で丸太をこつこつこつと素早く叩いた。木の幹にしがみつく鳥の、首の振り方まで真似していた。
きつつきだ。
この子の耳は、きつつきの耳。木を叩いて、中を聞く鳥の耳だ、と言っているのだ。
きつつき。名前を聞くまで、僕は心の中で、この子をそう呼ぶことにした。
シラノは三本目の丸太の、きつつきが叩いたところを指さして、両手で何かを割るしぐさをした。中が割れている。外からは何も見えない。でも叩いた音でわかる。
僕はその丸太のそばにしゃがんで、木肌を見た。黒っぽい、しっとりした木肌。どこにも、ひびなど見えなかった。
僕も、指の関節で叩いてみた。こつ。少しずらして、こつ。
同じ音だった。
顔を上げると、きつつきが僕を見下ろしていた。
それから何も言わずに、僕の手首をつかんだ。
冷たい手だった。氷みたいに冷たくて、細くて、なのに、ものすごく力が強かった。僕の手を丸太から引きはがして、かわりに僕の頭を丸太の木肌にぐいと押しつけた。耳を木にあてろ、ということだった。
冷たい木が、耳に貼りついた。
細い指が、少し離れたところを叩いた。
こつん。
木の中を、音が走ってきた。耳の奥に、まっすぐ届く、詰まった音。
指がずれて、さっきのところを叩いた。
こつ……。
違う……ように聞こえた。
音がどこかでつかえた。まっすぐ走ってくるはずの音が、途中で何かにひっかかって、ほんの少しだけぼやけて届いたように思えた。
僕は顔を上げた。
その子はもう僕を見ていなかった。三本目の丸太の、割れのあるところに、指で小さく印をつけていた。
◆
三本の丸太の木口には、年輪が見えていた。
鋸で切った木口はざらざらしていたけれど、黒っぽい木の中に細い輪がいくつもいくつも重なっていた。中心のほうは輪が広く、外へ行くほど詰まっている。
きつつきが、一本目の木口の前にしゃがんで、指先で輪を一つなぞった。
「ín traimfilá, ín tráimel.」
年輪。木が一年に一つずつ残していく輪。
僕も隣にしゃがんで、木口を眺めた。
しばらく見ているうちに、妙なことに気がついた。輪の幅が、そろっていないのだ。ときどき、ほかよりずっと幅の狭い輪が挟まっている。黒っぽい木の中で、そこだけ線が二本くっついたように見える。
一本。少し離れて、また一本。また一本。
何かで読んだことがあった。木は暖かい年にはよく育って幅の広い輪を残し、寒い年にはほとんど育たずに幅の狭い輪を残す。だから年輪の幅の並びは、その木が生きてきた年々の、暑さ寒さの記録になる。同じ土地の木は、みんな同じ年に同じ寒さをくぐってくるから、別々の木でも同じ並びを持つことになる。本の中では、奈良の古い寺の柱の木口が例になっていた。並びを突き合わせれば、千年以上前の柱が何年に伐られた木なのかまで、一年の狂いもなく言い当てられる、ということだった。
あのとき僕は、ふうん、と思っただけだった。
この狭い輪は、寒い年なのかもしれない。
僕は樹皮のすぐ内側から、内へ向かって輪を数えた。幅の狭い輪のところで止めて、指を折った。
七つ目。二十二。五十一。十五年あいて、次は二十九年。決まった巡りで来るのではない。
僕は幅の狭い輪を指さして、聞いた。
「ké ésa traimfilá pír tráimel klér?」
彼女は、ちらりと僕を見た。それから、短くうなずいた。
「éun. tráimel klér, traimfilá pír.」
冷えた年には、木はほとんど育たない。だから、輪の幅が狭くなる。樵の子にとっては、当たり前のことらしかった。
でも、僕が気になったのは、その先だった。
樹皮から七つ目。七年前。
僕は立ち上がって、倉の老人と話しこんでいるシラノのところへ行った。木口の狭い輪を指さして、それから指を七本立てた。
「nél tráimelais anlúin, ké ésa tráimel klér? ké gléuno traumbél?」
シラノは眉を上げて、木口をのぞきこんだ。それから、大きな手で自分の髭をなでた。
「éun. nél tráimelais anlúin, gléuno traumbél silóur.」
当たっていた。
二十二年前と、五十一年前は、と指を立てて聞くと、シラノは首をひねった。
「na ráinim ném. andaulóura némes ráina.」
◆
僕は、二本目の丸太の前に移った。一本目とは太さも、木肌の色も少し違った。それでも、冷えた年は、森じゅうに同じように来たはずだ。
僕は、二本目の木口を指さして、きつつきを呼んだ。
「un gandéroi silóur, sán traimfilái pírai. nél, dáumbar dáu, límombar ín.」
彼女は、二本目の木口をちらりと見て言った。
「ráinan gandérul tráimelais neulérenais.」
平たい声だった。指が、一本目の狭い輪と二本目の狭い輪を、ついでのように順に指していった。言われなくてもわかっている、という顔だった。
考えてみれば、当たり前だ。この子たちは、毎年何十本も木を伐るのだろう。同じ冬に伐った丸太の木口が同じ並びをしていることくらい、とっくに知っている。僕が言い当てたのは、この子にとっては、雪は白いと言ったのと変わらなかったのだ。
しかし、話の肝はそこではなかった。いつ伐ったのかわからない木と、伐った年のわかっている木と並べる。並びを一本ずつずらしながら、狭い輪と広い輪がぴたりと重なるところを探す。重なったら、柱の樹皮のいちばん外の輪が、何年の輪なのかがわかる。それが、柱の伐られた年だ。
ふと、町の大きな倉の太い柱が目に入った。黒ずんで、ひびの入った、古い柱。あの柱は、いつ伐られた木なのだろう。でも、あれは無理だ。木口は壁の中に埋まっていて見えない。それに、あの柱が五十一年より古い木なら、この丸太の並びでは届かない。もっと新しい木なら。
倉の脇に、差し掛けの小屋があった。橇や縄をしまっておく小屋で、丸太の柱を四本立てて、板の屋根を載せただけのものだ。倉ほど古くはない。柱の上の端が、梁の下から少しだけ突き出していて、木口が見えていた。
僕はきつつきの袖を引いて、小屋の前まで連れていった。柱の木口を指さして、それから丸太の木口を指さした。
わからない、という顔だった。でも、ついてきた。
◆
簡単ではなかった。
柱の木口は、雨と風にさらされて灰色に毛羽立ち、細かいひびが何本も走っていた。輪なんて一本も見えない。指でこすっても、ささくれが指に刺さるだけだった。
彼女は、木口を少しのあいだ眺めていた。それから腰の小刀を抜いて、小屋の横木に足をかけてよじ登った。刃を寝かせて、木口の表面を、紙のように薄く削いだ。一枚。もう一枚。削りくずが、霜の上にはらはらと落ちた。
三枚目を削いだところで、白っぽい木肌が出た。輪が見えた。
ただ、樹皮はとうに剥がれ落ちて、外側の輪が欠けていた。いちばん外の輪がないと、伐った年は読めない。彼女は四本の柱を一本ずつ見て回って、梁の陰になっている一本の、北側の面を指さした。そこだけ、薄い樹皮がまだ木にしがみついていた。その下の木口を、また薄く削いだ。
僕は自分の板と炭を取り出して、柱の下に立った。
きつつきが、樹皮の内側から、内へ向かって輪をたどりはじめた。外のほうの輪は細かく詰まっていて、僕の目には、どこからどこまでが一本なのかも見分けられなかった。霜で湿らせた指先で木口をなぞると、輪が一本ずつ浮かび上がった。狭い輪のところで、指を止めて、数を言った。
「téir.」
僕はそれを板に書いた。
彼女は、そのまま続けた。指先が、木口の上をゆっくりと内へ進んでいく。途中で一度、数えなおした。ひびのところで、輪が一本ずれて見えたらしい。
「téirombar dáu.」
三十二。
三と、三十二。間は二十九。
丸太の狭い輪は、七、二十二、五十一。間は、十五と二十九。
二十九の間は、二十二と五十一のあいだにしかない。だったら、この柱の三本目の輪は、丸太の二十二本目の輪と同じ年だ。三十二本目は、五十一本目と同じ年。
二十二から、三を引く。十九。五十一から、三十二を引く。十九。
ずれは、十九年。
この柱は、山猫の谷の丸太より、十九年早く伐られた木だ。
きつつきは、もっと奥まで数えていた。
「límombar.」
五十。丸太より十九年古いのだから、今から数えて六十九年前。丸太の輪では届かなかった、もっと古い冷えた年だった。
僕は板を持って、倉の戸口の老人のところへ行った。差し掛けの小屋を指さして、板の十九を見せた。
「ké ombár réum tráimelais anlúin?」
老人は小屋を見た。それから、ゆっくりと指を折りはじめた。一本ずつ、口の中で何か唱えながら。両手の指を一度折りきって、もう一度折りはじめた。九本目で止まった。
「éun. ombár réum.」
当たっていた。
振り返ると、きつつきが柱の下から歩いてきた。
そこで初めて、僕の顔をまともに見た。
さっきの、見知らぬ獣を見るような目ではなかった。何かを確かめるような目だった。僕の顔と、柱の木口を、何度か見比べた。
近くで見ると、顎に小さな白い傷があった。
僕は胸に手を当てた。
「þélim híro.」
hiro と短く言って、彼女は少し黙っていた。それから同じように、胸に手を当てた。細い指だった。
「tokalíña.」
トカリーニャ。
その終わり方を、僕は知っていた。セルヴィーニャの、-íña。子どもの名前の終わり方だ。井戸端で、人前でセルヴィーニャを子どもの名前で呼んで、女の人たちに冷やかされたことがある。それから僕は、家の外ではずっと té と呼んできた。初めて会った、よその家の女の子を子どもの名前で呼んだら、どうなるか。
だから、口を開いて、閉じた。
トカリーニャは僕が口を閉じるのを見ていた。それから短く言った。
「vír þelán némes.」
え、と思った。
トカリーニャはそれだけ言うと、立ち上がって、橇のほうへ戻っていった。裸足の足音が、霜の上でまったくしなかった。
◆
そこへ、セルヴィーニャが来た。
倉の前の騒ぎを聞きつけて、走ってきたらしかった。頬が赤くて、息が白かった。トカリーニャの背中を、珍しいものを見るような目で見送っていた。
聞きたいことがあった。でも、どう聞けばいいのかわからなかった。子どもの名前を、なぜ呼んでいいのか。それを聞く言葉を、僕は持っていなかった。
だから、試してみることにした。
僕はセルヴィーニャの顔を見て、呼んだ。
「selvíña.」
セルヴィーニャの眉が、きゅっと寄った。
「mé hál néman selvíña! ésim selvéla.」
腰に手を当てて、僕をにらんだ。北の高みで大人の名前をもらってから、まだひと月ほどしかたっていない。子どもの名前で呼ばれるのは、一番いやな時期なのかもしれない。
僕は、ごめん、と頭を下げた。それから、橇のほうへ戻っていくトカリーニャの背中を指さした。
「grúuna selvíña. na grúuna tokalíña. es pós?」
セルヴィーニャは、ぽかんと口を開けた。それから、僕が何を聞きたかったのかに気づいたらしく、ぷっと吹き出した。
わざと呼んだの、と言いたげな顔で、僕の腕を一つ叩いた。それから、少しだけ声を落として言った。
「un dravénei, víran þelíñais endríñar sal bóraloi silóur.」
知らない語が一つあった。さっきエルサンも、同じ語を言っていた。
「pó éso dravéna?」
セルヴィーニャは北を指さした。白糸川の上の、黒い森。それから両腕を大きく広げて、木が立ち並ぶさまを、手のひらを何度も立てて見せた。
森だ。
森では、違うのだ。町では、子どもの名前は家の中だけのもの。でも森の人たちは、子どもを家の外でも子どもの名前で呼ぶ。
僕はトカリーニャの背中を見た。山猫の毛皮の頭巾。房のついた、小さな三角の耳。
トカリーニャ。
声には出さなかった。でも頭の中で一度、呼んでみた。
◆
山猫の谷の人たちは、その夜、倉の炉に泊まることになった。エルサンは最後まで渋い顔をしていたけれど、倉の老人が何か言うと、黙った。
僕は一人で、崖の縁まで歩いた。
日が日の入りの側の遠い雲の中へ沈んでいくところだった。縁の肩の石の原が赤く染まっていた。白糸川の滝が崖の縁から、細い一本の白い糸になって落ちていた。凍りかけた滝の水は、ところどころで氷の柱になって、夕日を受けて橙色に光っていた。
僕は崖の縁に腹ばいになって、下を見た。
風が下から吹き上げてきた。冷たくて、かすかに湿っていて、どこか遠い、泥の匂いがした。
足もとの少し下に、岩棚が一つ見えた。
氷の棚。僕が落ちた棚だ。一年前、僕はあそこで目を覚ました。あそこまでなら、町の綱場の綱が届く。ヒルヴァンがあの綱で僕を引き上げた。
その下は、見えなかった。
崖は氷の棚の下で急に内側へえぐれていて、腹ばいになっても先が見えない。夕暮れの影が崖のすそから這い上がってきていた。その影の中に、崩れた二つの棚の跡がある。歌の中にだけ残っている、道の跡。
町の大きな倉は、何のために、あんなに大きいのか。
昔は、ここから荷を下ろした。シラノはそう言った。
山猫の谷から、半日。
でも綱が届くのは、氷の棚までだ。
その下は。
僕は影に沈んでいく崖を、いつまでも見下ろしていた。
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