第17.5話 町の子

石は、答えない。

町に着いて最初にわかったのは、それだった。

家も石。道も石。家と家のあいだの垣も、井戸のふちも、石。指の背で叩いてみると、どれも、こつ、と鳴って、それきりだった。音が中へ入っていかない。入っていっても、戻ってこない。

積んだ石だからだ。一つ一つが、離れている。叩いた音は、隣の石へ渡っていかない。

大きな一つの岩なら、少しは答えるのかもしれない。でも、わたしは、岩を叩いてみたことがなかった。森の子※1森の帯の谷ごとに住む森の氏族の人。樵や狩りで暮らし、狼・熊・山猫などを氏族のしるしにする。言葉も習いも、都や縁の人とは違う。は、木を叩く。

木なら、答える。

叩けば、音は木の中を走って、根もとまで下りて、梢まで昇って、また戻ってくる。中に割れがあれば、割れのところでつかえる。虫がいれば、虫のところでぼやける。木は、聞けば、ぜんぶ話す。

この町には、木が少ない。

崖の縁※2高原の南の端で、干潟へ千メートル近く切れ落ちる崖。崖そのものと、崖のすぐ上の台地を指す。の、ねじれた松が何本か。それだけだった。風の音が、どこにも引っかからずに、石の上をまっすぐ通りすぎていく。

◆

その夜は、町のいちばん大きな倉の炉※3崖を下ろす荷を預かってきた、尋のいる町の倉の家。旧道のころは、運び人の手がそろうまで荷を預かり、その預かり賃で暮らした。で寝た。

倉の炉の主は、太った男だった。兄さんが大きな声で笑うたびに、眉のあいだに皺を寄せた。森の者※4森の帯の谷ごとに住む森の氏族の人。樵や狩りで暮らし、狼・熊・山猫などを氏族のしるしにする。言葉も習いも、都や縁の人とは違う。が嫌いなのだ。顔に書いてある。でも、倉の年寄りが何か言うと、黙って炉に薪を足した。

兄さんは、橇の上で寝るみたいに、すぐに寝た。いびきが、倉の高い屋根に跳ね返った。

わたしは、眠れなかった。

炉の煙の匂いが、森と違う。森の炉は松の脂の匂いがする。ここの炉の薪は、脂の少ない、すぐに白い灰になる木だった。森の端の、風に負けて低く育った木だ。いい薪は、この町まで下りてこない。

毛皮の頭巾をかぶったまま、炉の向こうの暗がりを見ていた。

倉の柱が、炉の火に赤く照らされていた。

太い柱だった。わたしが両腕を回しても、指が届かない。黒くて、縦にひびが走っていて、ひびの中まで煤で黒い。

わたしは、起き上がった。

裸足で、柱の前まで行った。石の床が、足の裏に冷たかった。

指の背で、柱を叩いた。

こん。

音が、柱の中を、ずっと上まで昇っていった。昇って、梁にぶつかって、梁を伝って、倉の向こうの端まで走っていった。それから、ゆっくり戻ってきた。

乾いた音だった。軽い音だった。何百年も前に水が抜けきって、もう何も重いものを抱えていない木の音。

ばあさま※5シラノとトカリーニャの祖母。山猫の谷の巫(森の氏族の祭司)で、祖の木の年輪を毎年一つずつ数えて唱える。の祖の木※6三百年を越えた硬木の老木。森の巫が、その年輪を毎年一つずつ数えて唱える。と、同じくらい古い。

もっと古いかもしれない。

わたしは、柱に耳を当てた。

この町の人たちは、この木の声を聞いたことがあるのだろうか。毎日この倉に壺を出し入れして、柱の前を通りすぎて、一度も叩いたことがないのだろうか。

たぶん、ない。

この町の人たちは、木に聞かない。石に聞く。石は答えないのに。

◆

柱に耳を当てたまま、昼間会った町の子のことを考えた。

ヒロ。

ひょろりと背が高くて、顔の作りが、町の人と少しだけ違った。わたしより三つか四つ上。町の人と同じ毛織りの上着を着て、言葉の終わりを残してしゃべった。

でも、ヒロの話し方は、町の人とは違った。言葉を一つずつ、ぎこちなく並べて話すのだ。細い輪は、寒い年? と、それだけ言って、わたしを見た。

わたしは、うなずいた。当たり前のことだったから。寒い年は、木が育たない。だから輪が細い。森の子なら、三つの子でも知っている。

そのあと彼は、別の木の前に立って言った。

この木にも、細い輪がある。七つ目。二十二。五十一。

まだ数えていなかった。二本目の木口を見もせずに言ったのだ。

ばあさまは言う。輪は、数えるものだ。一つずつ、指でたどって、声に出さずに、唇だけで数えるものだ。見ただけで言い当てようとするのは、木を軽んじることだ。木は百年かけて輪を一つずつ残してきたのだから、わたしたちも、一つずつたどって聞かなければならない。

だから、腹が立った。

腹が立ったから、数えた。一つずつ。指でたどって。唇だけで。

七つ目。細い輪だった。

二十二。細い輪。

五十一。細い輪。

指が冷たくなった。霜のせいではなかった。

一本目の木と、二本目の木は、生えていた場所が違う。一本目は谷の日の出の側の斜面、二本目は沢の向こうの、日の入りの側の尾根の木だ。叩いたときの音が違ったから、わかる。違う場所で、違う風に吹かれて育った木が、同じ年に、同じように細い輪を残していた。

知らなかった。だが、考えてみれば、そうなのだ。場所は違っても、この木たちは同じ季節を経験してきたのだ。だから、同じように細い輪が現れる。だが、わたしにはその発想が無かった。

ばあさまは、知っているのだろうか。知っていて、わたしにはまだ教えていないのだろうか。

指の先がチリチリと痛んだ気がした。

◆

ヒロは、どこで木の声を聞いたのだろう。

町には、木がないのに。

炉の向こうで、兄さんが寝返りを打った。いびきが止まって、また始まった。

昼間、わたしは彼に名乗った。彼も名乗った。ヒロ、と。

短い名前だった。しかも、終わりが o だ。霧や水と同じ、重いほうの音。人の名前には聞こえなかった。

それからわたしの名前を呼ぼうとして、口を閉じた。

名前を呼ぶと、何か悪いことが起きると思っている顔だった。

わたしは、名を言え、と言った。

森では、子どもの名前は、誰が呼んでもいい。名前は、呼ばれるためにある。呼ばれない名前は、昇っていけない。

あとで、町の女の子が来て、ヒロに何か言った。髪を首の後ろで丸く巻いて留めた、よくしゃべる子だった。頬が赤くて、息が白くて、空の色の帯を締めていた。

ヒロがその子を幼い名※7生まれたときに家でつける子どもの名前。家族とごく親しい者しか口にしない(森の氏族は家の外でも呼ぶ)。で呼ぶと、その子は眉をつり上げた。

わたしは、橇のほうへ戻りながら、背中で聞いていた。

彼女は、ヒロの腕をぱしんと叩いた。それから、何かを言った。

声が、少し高かった。

日が暮れてから、その子は倉の炉にも来た。水の入った壺と、湯気の立つ粥の鍋を抱えていた。縁の町では、よそから来た者に、まず水と食べ物を出すのだという。

その子は、わたしの前に膝をついて、椀を差し出した。足、寒くないの、と聞いた。ゆっくりした、落ち着いた声だった。

わたしが首を振ると、その子は少しだけ困った顔をして、それでも椀をわたしの手に握らせた。

昼間、ヒロの腕を叩いていたときとは、別の人の声みたいだった。

あの子は、ヒロと話すとき、声が高くなる。

◆

夕方、ヒロは一人で崖の縁へ歩いていった。

わたしは、ついていった。

足音は立てなかった。石の原の、霜の降りた石を選んで踏んだ。山猫が獲物を追うときみたいに、岩の陰から岩の陰へ。前を行く背中は一度も振り返らなかった。

縁の手前の、大きな岩の陰で、止まった。

ヒロは、崖の縁に腹ばいになった。

夕日が、彼の背中を赤く照らしていた。崖の下から風が吹き上げてきて、短い髪を逆立てた。身じろぎもしないで、下をのぞきこんでいた。

町の人たちが言っていた。

ヒロは、去年の凍りの頃※8乾風期の後半。霜が降り、湖も川も凍る、一年でいちばん寒い時期。綱が凍るので、崖から硬木を下ろすのも止まる。日本の冬にあたるが、高原の人は「冬」という季節を立てない。に、空から落ちてきた。

流れ星※9上から何かが下りてくるしるしとして、強く恐れられる。空から落ちてきた者も「流れ星(dulána)」と呼ばれ、不吉なものとされる。が落ちて、崖の途中の棚に引っかかって、綱で引き上げられたのだと。倉の炉の主の太った男は、それを、まるで汚いものの話をするみたいに言った。指先の塩※10縁の人の厄除け。腰の小袋に塩を入れて持ち歩き、縁起の悪いことを言ったり聞いたりすると、指先につけた塩を額に当てる。干潟から伝わった習わしである。を、額に当てていた。

上から落ちてきたもの。

都の人なら、不吉だと言う。昇れなくなった魂だと言う。

でも、森では、ばあさまが、こう言う。

木は、根を下に、梢を上に伸ばす。下と上をつなぐ。硬い木は伐られて、崖の下の国※11崖の下の干潟の国(dálor「下の国」)。泥の原に杭を打って暮らす人々の土地で、潮で日を数え、十二で数える。高原の人は下の国を低く見て、名もあまり口にしない。へ下りていって、泥の中で杭になる。下へ行くことは、硬い木にとって、悪いことではない。それが、その木の行くところなのだ。

腹ばいになった彼の背中を、わたしは見ていた。

彼は、ずっと、下を見ていた。崖の途中の、自分が落ちた棚を。その下の、影に沈んでいく崖を。

しばらくして、ヒロの右手が、岩の縁から少しだけ出た。人差し指が崖の下を指して、それから一段、下がった。少し止まって、また一段。

唇が動いていた。声は出していない。

昼間、倉の年寄りが歌ったときと同じ動きだった。一つ、氷の棚※12旧道の五つの岩棚のうち、いちばん上の棚。崖の縁から綱で荷を下ろした先で、尋が落ちてきた所。上下の道が崩れて、棚だけが取り残されている。。二つ、崖山羊※13縁の崖や北の岩山にすむ野生の山羊。足場のない崖を渡り歩くので、崖道の運び人の守り神とされる。狩人が崖の縁で待ち伏せて射る。の棚。年寄りは一つ数えるたびに、手を一段ずつ下げていった。

ヒロは崖の棚を数えているのだ。歌の中にしか残っていない棚を、影の中に探している。

指は、三つ目のあたりで止まった。それから、長いあいだ動かなかった。

日が沈んで、石の原が青くなった。その背中は、まだ動かなかった。

わたしは、岩の陰から出なかった。

出ていって何を言えばいいのか、わからなかった。森の言葉※14森の氏族の話し方。都や崖道の言葉では落ちた語の終わりの母音を残す(keréla、gandéra)。でも、町の言葉でも。

炉の火が、小さくなっていた。兄さんのいびきが、倉の高い屋根に跳ね返っていた。わたしは柱から耳を離して、毛皮の頭巾を目の上まで引き下ろした。

◆

次の朝、兄さんが言った。

帰らない。この町に、しばらくいる。

白糸川※15高原の日の入り側を流れる川。夕の湖から流れ出て、縁から細く長い一筋の滝になって崖を落ちる。旧道はこの滝のわきを下りた。沿いの道を、橇が通れるか、自分の足で確かめるのだという。谷から町まで、丸太を下ろせるか。町から崖の下まで、丸太を下ろせるか。

兄さんは、昨日の夕方、ヒロが崖の縁で腹ばいになっていたことを知らない。わたしが話していないから。

でも、兄さんも、同じことを考えている。

倉の外に出ると、霜で白い石畳の向こうを、ヒロが歩いていくのが見えた。

崖の縁のほうへ。

わたしは、裸足で、霜を踏んだ。冷たかった。足の甲が、すぐに赤くなった。

兄さんの後ろについて、白糸川の道へ行かなければならない。わかっている。

わたしは、その背中を、もう一度だけ見た。

町の子、ではない。

ヒロ。

声には、出さなかった。でも、木を叩くみたいに、胸の中で一度だけ、その名前を叩いてみた。

こつ。

音は、まっすぐ、奥まで走っていった。

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