第16.7話 手の残らない布

布には、織った人の手が残る。

メウル※1都から歩いて半日の、湖のほとりの市の町メウルヴェイノルのくだけた呼び名。毛山羊の毛や毛織物の市で知られ、湖盆の人はふだんの買い物をここでする。の機場で、わたしはそれを覚えた。

同じ糸を、同じ機にかけて、同じ柄を織っても、織り手が違えば布が違う。打ち込みの強い人の布は、目が詰まって、少し硬い。気の短い人の布は、端が波を打つ。疲れてくると、誰でも、緯糸の打ち込みが少しずつ甘くなる。夕方に織ったところは、朝に織ったところより、指一本の幅に、緯糸が一本か二本少ない。

機場の親方は、反物を一目見ただけで、誰が織ったか言い当てた。わたしも、十年たつと、言い当てられるようになった。

布を見れば、その人の手が見える。その日の機嫌まで見える。

◆

明日の朝、メウルへ発つ。

凍りの頃※2乾風期の後半。霜が降り、湖も川も凍る、一年でいちばん寒い時期。綱が凍るので、崖から硬木を下ろすのも止まる。日本の冬にあたるが、高原の人は「冬」という季節を立てない。のあいだ、毎年、機場へ毛織物を織りに出る。霜が厚くなって、白糸川※3高原の日の入り側を流れる川。夕の湖から流れ出て、縁から細く長い一筋の滝になって崖を落ちる。旧道はこの滝のわきを下りた。の岸に氷が張りはじめたら、それが合図だ。

その夜、わたしは荷をまとめるために、部屋の隅の木の箱を開けた。

戸板の隙間から、乾いた冷たい風が細く入ってきて、炉の火を横に寝かせた。ふたを開けると、箱の中から、毛織りと脂の匂いが立ちのぼった。何年も、この箱に、わたしの織ったものだけを入れてきた。

持っていく糸と、杼と、替えの帯。上に重ねた布を、一枚ずつ取り出していく。生成りの布。灰色の布。縁※4高原の南の端で、干潟へ千メートル近く切れ落ちる崖。崖そのものと、崖のすぐ上の台地を指す。に黄色い糸を一筋だけ織りこんだ布。

いちばん底に、紺の上着があった。

小さく、四角く畳んだまま。袖を内側に折って、胸の刺繍が見えないように裏返して。

一年前に、わたしが畳んだときのままだった。

◆

一年前の霧の夜、わたしは一度、この上着を箱の底から取り出した。

家の者がみんな寝しずまってから、熾の明かりにかざした。霧が戸の隙間から入りこんで、炉のまわりまで湿っていた。布の手ざわりを確かめるには、悪い夜だった。それでも、確かめずにはいられなかった。

染めむらが、なかった。湖の都の染め屋でも、大きな布になれば、どこかに必ず濃いところと薄いところが出る。それが、この布には、袖にも身ごろにも襟の裏にも、なかった。

綾に織ってあった。綾織ならメウルでも織る。でも、指一本の幅に、経糸が何本あるか、数えきれなかった。糸が細すぎる。それなのに、切れていない。太さのむらもない。

朝に織ったところと、夕方に織ったところが、なかった。機嫌のいい日も、悪い日も、疲れた日も、なかった。端から端まで、同じ強さで、同じ間で、緯糸が打ち込まれていた。

縫い目は、表と裏が同じ形をしていた。一本の針と一本の糸では、そうはならない。二本の糸が、布の中で、一目ごとに絡み合っていた。

手が、見えなかった。

どこを見ても、織った人の手がなかった。

誰も、織っていない。

わたしは、そう思った。こんな布を織れる者はいない、という意味ではなく、本当に、誰の手も通っていないのだと。

あの夜、わたしは怖かった。

手の残らない布を作るものがある場所から、あの子は来た。乾期になって崖道※5今の崖を上り下りする道。上り口に崖道の町ドゥランドがあり、運び人が荷を担いで上り下りする。が開けば、噂がドゥランド※6縁の肩の中ほどにある、今の崖道の町。崖道の上り口と降ろし場があり、崖道の商人や運び人が崖を下りる前に泊まる。へ下りる。司の役人たちが来る。説明のつかないものを、あの人たちは、そのままにはしない。

だから、隠した。わたしの手の残った布で、手の残らない布を覆った。

◆

でも、今は、もう隠さなくていい。

ヒロは、ドルヴァルの者になった。白い建物※7王の司が町に置く館。漆喰で白く塗るので、町の人はこう呼ぶ。縁の町の人がこう言えば、たいていドゥランドの書の司の館のことで、系譜の巻の写しを預かり、人を系譜に書き入れる手続きをする。書き入れには雑穀を納める。で、系譜※8家ごとに、源(始祖)から今までの人の名を書き継いだ巻物。系譜に書かれて初めて、その家の者として扱われる。に書かれた。目付※9役所から町々へ見回りに来る役人。人や荷を「検める」。は、もう、あの子を検めない。

わたしは、紺の上着を、箱の底から取り出した。

一年ぶりに、膝の上で広げた。

◆

「それ」

声がして、顔を上げた。

ヒロが、炉の向こうから、こちらを見ていた。帳場※10降ろし場の荷と数を帳簿に書きつける所。書記たちが荷札を読み、数え盤で確かめる。から十日ぶりに帰ってきた夜だった。セルヴェラはもう寝床にもぐっていて、義母さんと夫は、戸口の外で星を見ていた。

あの子は炉を回って、わたしの隣に来た。膝をついて、上着を見下ろした。

手を伸ばしかけて、止めた。

「触って、いいのよ。あなたのだから」

ヒロは、そっと、袖に触れた。

それから、袖を持ち上げて、顔に近づけた。匂いをかいだ。

しばらく、そのままでいた。

「……ここの、匂い」

わたしの箱の匂いだった。わたしの織った毛織りの、少し脂っぽい匂い。義母さんの炉の、煙の匂い。一年のあいだに、この上着は、すっかりこの家の匂いになっていた。

口の端だけで少し笑った。それから袖を顔から離して、膝の上に、そっと戻した。戻すときの手が、ゆっくりだった。

わたしは、聞いてみることにした。一年前には、聞けなかったことを。

「これを織ったのは、誰」

ヒロは、少し考えた。言葉を探すとき、いつも炉の灰のあたりに目を落とす。

「人じゃない。機」

「機?」

「大きい機。鉄の。たくさん」

両手を大きく広げた。この家よりも、もっと大きく。それから、その手で、何かがたくさん並んでいる形を、空中に描いた。

「機が、自分で織る。人は、見る。だけ」

機が、自分で織る。

わたしは、膝の上の布を見下ろした。疲れも、機嫌も、朝も夕方もない布。

そうか、と思った。手の残らない布は、手のない機が織ったのだ。

「一日に、何反」

ヒロは、指を折りかけて、やめた。首を振った。

「わからない。たくさん。千。もっと」

千。

わたしが凍りの頃いっぱいかけて、メウルの機場で織る反物は、二十と少しだ。

◆

「これを着ていたのは、どんな人」

ヒロは、胸の刺繍を指でなぞった。裏返しに畳んであったのを、表に返して。

知らない形の、刺繍だった。盾のような形の中に、草の葉が二枚。

「学び舎※11字や詩を学ぶ所。とくに都で書の司が書記を育てる場をいい、通うのはふつう書記の家の子である。の服。子ども、みんな、同じ服」

「みんな?」

「みんな。運び人※12崖道で荷を担いで上り下りする人々。額にかけた帯で背の荷を支える。身分は段のいちばん下の九段下りだが、運び人がいなければ縁の取引は止まる。の子も」

わたしは、ヒロの顔を見た。

雨期※13霧期のあとの、白月四回ほどの季節。南の風が崖を越えて雲になり、静かな雨が毎日降る。雨期の初めに雑穀を播き、終わりに刈る。の終わりごろ、セルヴェラが、まだ子どもの名前で呼ばれていたころに言っていた。ヒロの国には、段※14人の身分の十の段。いちばん上が王の座で、そこから何段「下りた」かで身分を言う。重ねた上着の色でわかる(枚数は段ごとの上限にすぎない)。がないのだと。子どもはみんな、学び舎に通って、同じ部屋で、同じ字を習うのだと。わたしは、あの子の作り話だと思って、笑って聞いていた。

この布を、子どもがみんな着る。

手の残らない布を、運び人の子も、書記※15字を書き、帳簿や記録をつける役人。書の司の学び舎で育てられ、身分は四段下り。目上なので、下の者は名で呼ばずに「書記の方」と言う。の子も、同じに着る。

わたしは、一年前の夜を思い出した。肘が擦り切れて、裾がほつれて、袖口に染みのあるこの上着を見て、わたしは怖くなった。わたしなら一生に一度袖を通すかどうかの布を、ふだん着にしている場所。どれほど恐ろしいものを持っている場所なのだろう、と。

でも、ヒロの話す場所は、恐ろしいところではなかった。

布が、いくらでもある場所だった。いくらでもあるから、誰でも着られる場所だった。

◆

「返そうか」

わたしは、上着を、ヒロのほうへ差し出した。

「もう、隠さなくていいの。着たければ、着ていい」

ヒロは、上着を受け取った。両手で、しばらく持っていた。

それから、もう一度、小さく四角く畳んだ。わたしが畳んだのと同じように。袖を内側に折って、刺繍を裏返して。

わたしの膝の上に、そっと戻した。

「箱に。いい」

「着ないの?」

「小さい」

自分の肩を叩いた。それから、両腕を広げて、袖を見るまねをした。

そういえば、あの子は一年で背が伸びた。肩も厚くなった。大石段※16ドゥランドの上の宿から降ろし場へ下りる急な石段。荷車が通れないので、宿の荷も崖の下から上がる塩も、運び人が担いで上げ下ろしする。で荷を担いで、帳場の机にかじりついて。この上着の袖は、もう、ヒロの手首まで届かないだろう。

来たばかりのころのヒロを、わたしは覚えている。霧の夜、炉の前で、毛皮の上着の下にこの紺の上着を着て、膝を抱えていた。細い首だった。何を言われても、半分しかわからない顔をしていた。

今は、わたしの問いに、短くても、ちゃんと答える。

自分の着ている灰色の上着の袖を、指でつまんだ。去年の霧の夜、わたしが息子のために織って、ヒロに着せた上着。袖が少し長かったのに、今はちょうどいい。

「これが、いい」

◆

紺の上着を、箱の底に戻した。

その上に、わたしの織った布を重ねた。生成りの布。灰色の布。縁に黄色い糸を一筋だけ織りこんだ布。

一年前と同じだった。でも、一年前とは違った。

隠すためではなかった。しまっておくためだった。

ふたを閉めて、わたしは機の前に座った。

機には、織りかけの布がかかっていた。ヒロの、次の凍りの頃の上着になる布だ。この一年で伸びた背丈を、わたしは目で測ってある。

わたしは、ヒロを手招きした。

首をかしげて、機の前に来た。

わたしは、ヒロの手に、杼を握らせた。それから、ヒロの手の上から自分の手を重ねて、経糸の開いたあいだに、杼を通させた。

ヒロの手は、思っていたより硬かった。指の腹に、荷の紐でできた胼胝があった。中指の脇には、墨が染みていた。運び人の手と、書記の手が、一つの手の上に重なっていた。

「筬を、引いて」

ヒロは、筬の柄を握って、引いた。

とん。

強すぎた。緯糸が、そこだけ、ぎゅっと詰まった。

わたしは、笑った。声を出して笑ったのは、久しぶりだった。

ヒロは、困った顔で、詰まった緯糸を見ていた。直そうとして、手を伸ばした。

わたしは、その手を止めた。

「直さなくていい」

布には、織った人の手が残る。

この布の、ここには、ヒロの手が残っている。強すぎる、不器用な、一本の緯糸。次の凍りの頃、ヒロがこの上着を着るたびに、袖のどこかに、それがある。

手の残らない布は、箱の底にしまった。

手の残る布を、わたしは、明日からメウルで、また織る。

炉の火が、ぱちりとはぜた。戸口の外で、義母さんと夫の、低い話し声がしていた。

わたしは、自分の腰の帯に触れた。メウルで織った、替えの帯。

空色の帯は、ついこのあいだ、北の高み※17高原の北の、雪の消えない峰の続く山地。天にいちばん近く、成人の儀や王家の聖地がある。の岩屋※18北の高みの峰の中ほどにある岩屋。成人の儀で一人で社へ上る子を、大人たちがここで待ち、下りてきた子を迎える。で、セルヴェラの腰に移した。北の高みを下りてきた日に、母さんがわたしに締めてくれた帯だ。母さんの手が残っている。何十年も締めて、わたしの手も残っている。

これからは、セルヴェラの手も、残っていく。

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