第21話 山猫の谷

霧は、崖の下から来た。

ある朝、戸口を開けると、縁の肩の石の原が消えていた。白い壁が、家の前の石垣のすぐ向こうに立っていた。音もなく、ゆっくりと、地面を這うように動いている。手を伸ばすと、指の先が白くかすんだ。冷たくて、湿っていて、かすかに泥の匂いがした。崖の下の、泥の原の匂いだった。

霧の季節が来たのだった。

霧の中では、名前を呼んではいけないらしい。去年の霧の季節の最初の朝、ヒルヴァンを呼びかけて、ウェレラさんに口をふさがれたことがあった。理由は、今もよくわからない。

霧が来た日の夕方、フレウレラさんがメウルの機場から帰ってきた。毛織りの包みを背負って、霧の中から、ふいに戸口に現れた。僕の腰の役の札を、指でそっと触った。発つ前の夜にも見たはずの札を、まだそこにあるか確かめるように。何も言わなかった。でも、その夜の粥は、僕の椀がいちばん多かった。

◆

霧の季節に入って五日目、霧の中から、シラノが現れた。

後ろに、頭巾の三角の耳。トカリーニャもいた。冬の終わりに丸太を運んできてから、二人は一度、谷へ帰っていた。白糸川沿いの道は、霧の季節のぬかるみで足首まで沈む。それを、また下りてきたのだ。

シラノは、炉の前でウェレラさんに長いあいだ話した。早口で、半分も聞き取れなかった。sirnéla、という名前が、何度か出た。トカリーニャは戸口のそばに立ったまま、ずっと僕を見ていた。

それから、シラノは僕を指さした。

「tór, híro.来い、尋 an kerél.谷へ」

ウェレラさんは、しばらく炉の火を見ていた。それから、うなずいた。

トカリーニャが、自分の顎を指でつまんで、背中を丸め、杖をつくまねをした。それから、僕の胸を指でつついた。

年寄りが、僕に会いたがっている。たぶん、そういうことだ。

◆

次の朝、シラノとトカリーニャと三人で、白糸川をさかのぼった。

縁の肩の石の原を抜けると、地面が少しずつ上りになった。石のあいだに土が増え、苔が厚くなり、低い木が、だんだん高い木になった。霧は、森に入ると、ますます濃くなった。

森の中は、音が違った。

縁の肩では、風がいつも鳴っている。森では、風の音が、頭の上の枝の中に吸いこまれて、遠くなった。かわりに、水の音がした。木の葉から落ちる雫の音。苔の下を流れる細い水の音。白糸川の、くぐもった音。足を踏み出すたびに、ぬかるんだ土が、靴の下でぐちゅりと鳴った。

トカリーニャは、先を歩いていた。

裸足だった。ぬかるみの中で、どこに足を置けば沈まないのかを、知っているみたいだった。木の根の上。石の頭。倒れた幹の上。ひょい、ひょい、と、跳ぶように進んでいく。

僕は、何度も足を取られた。一度は、膝まで泥に沈んだ。

トカリーニャが、立ち止まって振り返った。黙って、僕が泥から足を引き抜くのを見ていた。それから、自分の足もとの木の根を、つま先で二度、とんとんと叩いた。

ここを踏め、ということだった。

僕は、その根に、足を置いた。沈まなかった。

トカリーニャは、もう前を向いて歩きだしていた。でも、それからは、僕が足を置くべきところを、ときどき、つま先で叩いて教えてくれた。

◆

昼を過ぎたころ、霧がさらに濃くなった。

前を行くトカリーニャの背中が、白くにじんだ。シラノの大きな影は、とっくに見えなくなっていた。

足もとの根を探しているうちに、顔を上げると、トカリーニャの背中が消えていた。

白い霧が、四方から押し寄せていた。木の幹が、霧の中にぼんやりと立っている。どの方向を見ても、同じだった。

僕は、思わず口を開いた。

「toka——」

霧の中から、手が伸びてきて、僕の口をふさいだ。

冷たい手だった。細くて、強い。トカリーニャだった。ほんの二、三歩先にいたのだ。

怖い顔で僕をにらんでいた。

「mé hál þelán名前を呼ぶな.」

霧の中で、名前を呼んではいけない。去年、ウェレラさんに口をふさがれた。知っていたのに、とっさに口から出ていた。

「grómimごめん.」

トカリーニャは、僕の口から手を離した。それから、すぐそばの木の幹に、曲げた指の関節を当てた。

こつ、こつ。

二度、叩いた。乾いた、よく響く音だった。霧の中で、その音だけが、くっきりと聞こえた。

僕の手を取って、僕の指の関節を、同じ幹に当てさせた。

こつ、こつ。

僕が叩くと、彼女は小さくうなずいた。

それから、すっと霧の中へ下がっていった。三歩、四歩。背中が、白くにじんで、消えた。

こつ、こつ。

霧の向こうから、音がした。

僕は、手もとの幹を叩いた。こつ、こつ。

また、向こうから。こつ、こつ。少し、近くなった。

霧の中から、トカリーニャが現れた。口の端が、ほんの少しだけ、上がっていた。

きつつきの音だ、と思った。

木を叩く鳥。トカリーニャの名前。霧の中で名前を呼べない森の人たちは、こうやって、互いの居場所を知らせ合うのだ。

その日、谷に着くまで、トカリーニャは何度も霧の中に消えた。そのたびに、こつ、こつ、と音がした。僕は、そのたびに幹を叩いて返した。

◆

谷の入り口の手前で、道が崖にぶつかった。

白糸川の支流が、岩の壁の足もとを削って流れている。道は、その壁に沿って続いていた。壁の上でも、下でもない。壁の、途中を。

岩の壁に、四角い穴が、一列に並んで穿ってあった。その穴の一つ一つに、黒い硬木の梁が差しこんであって、梁の上に、厚い板が渡してある。板の下は、霧の中で白く泡立つ流れだった。

壁に貼りついた、木の道だった。

シラノは、板を踏み鳴らして、平気な顔で渡っていった。トカリーニャも。僕は、壁の岩に手をつきながら、一歩ずつ渡った。板は、少しも揺れなかった。

渡りきってから、振り返った。

梁が刺さった岩の穴を見た。綱場の、二本の腕木の差し穴を思い出した。片方は、ついこのあいだまで、水の穴だった。岩に四角い穴を穿って、硬木を差す。この谷の人たちは、それを、崖の途中でやっている。

崖の途中。

頭の中で、三百七十腕の綱が、ぶら下がっていた。霜の棚から崖のすそまで、何もない壁。

でも、もし、その途中に、こういう足場を一つ作れたら。

三百七十腕を、二つに割れる。

僕は、シラノの袖を引いた。壁の木の道を指さして、それから、灰に描くかわりに、手のひらを縦に立てて崖にした。崖の途中に、指で横に一本、線を引いた。

シラノは、僕の手と、壁の木の道を、何度か見比べた。それから、太い指で自分の胸を叩いた。

「brólimor traumbélul橋を架けるのは俺たちだ. brólimor lónais silóur柱だって組める.」

それから、にやりと笑って、僕の手のひらの崖の、ずっと下のほうを指さした。それから、首を横に振った。

どこにでも組めるわけではない。岩が、梁を支えられるところでなければ。

それは、そうだ。霜の棚の下の壁が、どんな岩なのか、僕は知らない。誰も、知らない。

◆

山猫の谷は、霧の底にあった。

白糸川の支流が、深い谷を刻んでいた。谷の両側の斜面に、太い丸太を組んだ家が、段々に並んでいた。屋根は、木の皮で葺いてあった。どの家の戸口にも、丸い目の獣の顔、山猫のしるしが、焼印で押してあった。

谷の底には、伐った丸太が積み上げてあった。何十本も。冬に橋が凍って、出られなかった丸太だ。霧に濡れて、黒く光っていた。

谷の人たちの話し方は、シラノと同じだった。言葉の端を、落とさない。町の人の話し方より、もっと古い感じがした。歌うように、ゆっくりと話す。

トカリーニャの家は、谷のいちばん奥にあった。

ほかの家より小さくて、古かった。戸口の上に、山猫のしるしのほかに、もう一つ、見たことのない印が刻んであった。輪がいくつも重なった、渦のような印。年輪だ、と思った。

◆

炉のそばに、老女が一人座っていた。

小さな人だった。ウェレラさんより、さらに小さい。白い髪を長く伸ばして、頭の上で一つに結っていた。顔じゅうが皺で、目だけが、霧の中の灯のように光っていた。

シラノが身をかがめて、小声で教えてくれた。sirnélaシルネラ。シラノとトカリーニャの祖母で、谷で伐る木に詞を唱える人らしい。神社の巫女のようなものだろうか。僕は心の中で、巫と呼ぶことにした。

彼女は、僕の顔を、長いあいだ見ていた。それから、ゆっくりと言った。言葉の端まで、一つずつ置くように。

「ké tás, te vóiles traimfiláis年輪を読むのは、お前かい?」

トカリーニャが、僕の横で、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

僕は、うなずいた。それから、あの日、町の倉の前で見つけた狭い輪のことを、知っている言葉で聞いた。

「dáumbar dáu tráimelais anlúin, si límombar ín, ké sán tráimelai klérai二十二年前と、五十一年前は、寒い年だった?」

巫の目が、少しだけ細くなった。

「éun. dáumbar dáu tráimelais anlúin, gléuno louvrúndoそうさ。二十二年前は、長川まで凍った. límombar ín tráimelais anlúin, þróuman méulai bróusai五十一年前は、毛山羊がたくさん死んだ.」

当たっていた。

丸太の狭い輪は、本当に、その年を覚えていたのだ。

巫は、炉の灰の中から燃えさしを一本取って、炉の縁の石に、輪を一つ描いた。それから、その外に、もう一つ。もう一つ。

その手つきは、僕が倉の前でやったのと同じだった。輪を数えて、年を読む。

燃えさしを置いて、僕を見た。

「pórin ráinesどうして知っている?」

誰にも教わっていない。僕は、自分の指を一本ずつ折ってみせた。

「rímbim数えた.」

嘘ではなかった。でも、全部でもなかった。

狭い輪が寒い年だということも、伐った年のわからない木を、年のわかる木と並びで突き合わせれば年がわかるということも、僕は、日本で本を読んで知っていた。それを、彼女にどう言えばいいのか。別の世界の、駅前の本屋の棚に並んでいた本の中で、学者が書いていた。そんなことを言う言葉を、僕は持っていない。言葉があったとしても、信じてもらえるとは思えなかった。

巫は、しばらく黙って僕を見ていた。霧の中の灯のような目が、僕の顔の奥の、もっと奥を見ているような気がした。

それから、皺だらけの顔をくしゃっとさせて、声を出さずに笑った。

それ以上は、聞かなかった。

笑いをおさめると、僕の手首を、乾いた細い指でつかんだ。

「mé rainís élan páineiそれを誰にも教えるな.」

細い指が、思ったより強かった。僕がうなずくまで、手首を放さなかった。

僕は、うなずいた。

隣で、トカリーニャが、ぽかんと口を開けていた。

◆

その夜、巫は歌を歌った。

炉の火が小さくなったころ、谷の年寄りたちが、巫の炉に集まってきた。綱場の話を聞くためだった。でも、話の前に、シラノが巫に何か頼んだ。巫は、目を閉じて、かすれた声で歌いはじめた。

知っている節だった。

町の倉の老人が歌った、岩棚の数え歌。

「ín, glünóra一つ、氷の棚. dulénde fláinin, aurénde fláinin軽く下りよ、軽く昇れ.」

違った。

巫の歌には、もう一つあった。aurénde fláinin。軽く、昇れ。

「dáu, krambóra二つ、崖山羊の棚. dulénde fláinin, aurénde fláinin軽く下りよ、軽く昇れ.」

倉の老人の歌に足りなかった半分が、ここにあった。

シラノが、僕の顔を見て、にやりと笑った。

◆

綱場の話は、夜更けまで続いた。

僕は、板に数を書いて見せた。綱が百二十綱。そのための繊維が、どれくらい要るか。継ぎ場の柱と梁が、何本要るか。

谷の年寄りたちは、黙って板を見ていた。それから、口々に何か言いはじめた。一人が、炉の薪の皮を爪で剥がして、それから、雨の降るしぐさをしてみせた。皮は、雨の季節にしか剥けないらしい。別の一人は、巫のほうを顎で示して、首を振った。巫が何かを言うまでは、木は伐れない、ということらしかった。

巫が、最後に、ゆっくりと言った。

「kélimor árnelais lúin lóimim ném木はわたしが詞を唱えてから伐る.」

年寄りたちは、うなずいた。それで、話は終わった。

◆

次の朝、霧は少しだけ薄くなっていた。

トカリーニャが、僕の袖を引いた。黙って、谷の奥のほうへ歩きだした。僕は、ついていった。

谷の奥の、斜面の上に、一本の木が立っていた。

大きな木だった。幹は、二人で手をつないでも、まわりきれないくらい太かった。枝は霧の中へ消えていて、てっぺんが見えなかった。幹の皮は、厚く、深く割れていて、苔が、緑の毛皮のように覆っていた。

「aursárご先祖.」

トカリーニャが、言った。

幹に手のひらを当てて、それから、耳を当てた。目を閉じた。

僕も、反対側から、幹に耳を当てた。

何も聞こえなかった。

いや、聞こえた。とても遠くで、水が流れるような、かすかな音。木の中を、何かが上へ昇っていく音。

目を開けると、トカリーニャが幹の向こうから、僕を見ていた。

「téir sénþarul fáirombar三百四十.」

この木の年だ、と思った。立っている木の年輪は、数えられない。

「pórin ráinesどうしてわかるの?」

「lóima andaulóura némes ínin tráimelばあさまが毎年唱える.」

巫は、毎年、祖の木の前で、その年の数を一つ足して唱えるのだ。系譜の唱えと同じように。三百四十年分の、数え歌。

◆

祖の木の根もとに、二人で座った。

霧が、木々のあいだを、ゆっくりと流れていった。どこかで、本物のきつつきが、木を叩いていた。こつ、こつ、こつ、こつ。トカリーニャの合図より、ずっと速かった。

トカリーニャの顎の、小さな白い傷が、目に入った。

彼女は僕の視線に気づいた。それから、自分の顎の傷を指でなぞって、祖の木の、ずっと上のほうの枝を指さした。

「ném silóur brúumimわたしも落ちた.」

小さいころ、この木に登って、落ちたのだ。

brúum。落ちる。町の人たちが、僕のことを言うときの言葉。落ちてきた者。

トカリーニャは、指を上へ動かした。

「duói, áurim ín fréimanそれから、もう一回登った.」

落ちて、それから、また登った。

それだけ言って、また霧のほうを見た。

僕は、自分の胸を指さした。

「ném silóur僕も.」

僕も、落ちた。崖の途中の棚に。そこから、ヒルヴァンの綱で、上へ引き上げられた。

彼女は僕の顔を見た。それから、少しだけ、笑った。

初めて見る笑い方だった。口の端だけじゃなくて、目まで笑っていた。

◆

その日の昼、シラノと二人で谷を発った。

トカリーニャは、谷の入り口まで、ついてきた。そこで立ち止まった。白糸川の道は、霧の中へ続いていた。

トカリーニャが、僕の名前を呼んだ。

「híro.」

霧は、まだ残っていた。でも、谷の中の、薄い霧だった。名前を呼んでも、いい霧なのかもしれない。

僕も、呼んだ。

「tokalíña.」

初めて、声に出して呼んだ。

町では、子どもの名前を、家族でもない者が口にしてはいけない。一年前、そのことで笑われた。でも、ここは森だ。森では、子どもの名前を、家の外でも呼んでいい。

返事はなかった。頭巾の三角の耳が、少しだけ揺れた。

僕とシラノは、霧の中へ歩きだした。

しばらく行ってから、後ろで音がした。

こつ、こつ。

僕は、そばの木の幹に、指の関節を当てた。

こつ、こつ。

霧の向こうから、もう一度、返ってきた。こつ、こつ。

それから、音はしなくなった。

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