第22話 釣り合い

霧は、来たときと同じように、ある朝、いなくなった。

戸口を開けると、縁の肩の石の原が戻っていた。苔が水を含んで、黒っぽい緑に光っていた。石垣の陰に残っていた雪が、ぜんぶ消えていた。空は高く、薄い青で、北の山並みの雪だけが白かった。

綱場の綱は、霧の湿りを吸って、黒く重くなっていた。ヒルヴァンが三日かけて、巻き胴からほどいて、日に当てて乾かした。

谷から戻って、半月がたっていた。

◆

その日、僕は板を抱えて、倉の炉へ行った。

倉の老人は、炉の脇で縄をなっていた。僕は、老人の前に板を置いて、最後の段の数を指さした。三百七十腕。

「es sirnóros du dálor, éso fúnel lóuvan三つ目の棚から崖の下まで、綱が遠い. éso gróm重い.」

長い、という言葉を、僕は知らなかった。だから、遠い、と言った。長すぎる綱は、重すぎる。言えたのは、それだけだった。

それから、板の隅に、谷の入り口で見た木の道を描いた。岩の壁に、四角い穴を一列に穿つ。穴に、梁を差す。梁の上に、板を渡す。

その絵を、三百七十腕の段の、途中に描き足した。

倉の老人は、縄をなう手を止めて、板をのぞきこんだ。それから、白いひげの奥で、何かを思い出すように目を細めた。崩れた四つ目の棚の名のところを、節くれだった指で叩いた。その指で今度は戸口の外を指した。白糸川の滝のほうだ。

「duló滝.」

dúl下りる に -ó。水が下りるもの。滝だろう。それなら四つ目の棚は dulóra滝の棚 だ。崖山羊の棚の krambóra と同じ作りだ。

「anlúin, brólan éndrai lónais un dulóroi昔は、四つ目の棚に人が柱を組んだ.」

それから老人は、指で宙に小さな四角を描いた。

「sán snúlvul un mónoi.石に穴がある」

老人は両手で綱をたぐって下りるまねをして、それから、自分の耳を指でつついた。誰かが下りて、見てきた。老人は、その話を聞いた。たぶん、そういうことだ。

身振りと、知っている言葉と、知らない言葉をつなぎ合わせて、そこまでわかるのに、炉の薪が二本燃え尽きた。

谷の入り口の、壁の木の道と、同じだ。

僕は、板の上に、四つ目の継ぎ場を描き足した。

目標図:崖のすそまで、継ぎ場ごとに釣り合いの綱を置く
目標図:崖のすそまで、継ぎ場ごとに釣り合いの綱を置く

縁の綱場から氷の棚まで、二十七腕。氷の棚から霜の棚まで、二百三腕。霜の棚から滝の棚の跡の足場まで、百五十腕。そこから崖のすそまで、二百二十腕。四つの段に、四つの巻き胴と、八本の綱。どの継ぎ場にも、歯止めの番が一人ずつ。

硬木が一本下りるたびに、崖のすその塩の箱が、一段ずつ昇ってくる。

崩れた岩が梁を支えられるのかは、誰かが下りてみるまでわからない。

まずは、一段目からだ。

◆

寄り合いの前の日、シラノとトカリーニャが、また下りてきた。

シラノは、倉の前で僕を見つけると、胸を叩いた。

「kráilimor silóur.俺たちも持つ」

あの日、井戸の前で、ウェレラさんが言った言葉だった。

トカリーニャは、倉の前で僕を見つけると、近くの柱を、指の関節で二度叩いた。

こつ、こつ。

霧は、もうなかった。名前を呼んでもいい。でも、トカリーニャは呼ばなかった。僕も、柱を二度叩いて返した。

◆

寄り合いは、その次の日の夕方に、町の大きな倉で開かれた。

倉の中は、外より寒かった。石の壁が、まだ冬の冷たさを溜めこんでいる。壁ぎわに積んだ雑穀の壺のあいだに、町の炉の主たちが、毛皮をかぶってしゃがみこんでいた。灯の火が、天井の高い梁まで届かずに、暗がりの中で揺れていた。

去年の冬、僕はこの倉の、横手の戸の隙間から寄り合いをのぞいた。冬の配分の夜だ。僕に雑穀を回すなと、太った男が言った夜。

今は、倉の真ん中に立っていた。

綱場の仕掛けは、もうできている。寄り合いが決めるのは、それを、崖の外へ使わせるかどうかだった。

ウェレラさんに促されて、僕は前に出た。手には、灰の絵を写した板を持っていた。

喉が渇いた。長い話はできない。僕の言葉では、まだ無理だ。だから、言えることだけを、短く言うことにした。

「dúlo gandér硬木が下りる. áuro fáron fláin軽い荷が上がる. ín fúnel綱は一本. ín éndra人は一人.」

板の絵を、指でなぞった。巻き胴。二本の綱。下りる硬木と、上がる荷。

それから、木工の老人の小さな綱場を、板の横に置いた。砂の袋と、水の壺。指を離すと、巻き胴が回って、砂の袋が下り、水の壺が上がってきた。

何人かの炉の主が、首を伸ばした。

倉の中が、静かになった。

ウェレラさんが、炉の主たちの前に出た。僕の板を受け取って、灯にかざした。長いあいだ、黙って見ていた。

それから、倉の中の全員に聞こえるように、ゆっくりと言った。

「dúlo gróm, áura fláin重いものは下り、軽いものは昇る.」

炉の主たちのあいだに、ざわめきが走った。年寄りの何人かが、うなずいた。

木工の老人の作業場で、砂の袋と水の壺を持ち比べていた、ウェレラさんの手つきを思い出した。あのとき、ウェレラさんは、もう、この言葉を探していたのかもしれない。

子どもでも知っている言葉なのだと、あとでセルヴィーニャが教えてくれた。

シラノが、倉の奥から、大きな声で繰り返した。kráilimor silóur。炉の主たちが、顔を見合わせた。

ウェレラさんは続けた。

「dúlin, auríþo gandér fáron硬木は下りながら、荷を昇らせる.」

ドゥランドの最初の下ろしで、林野庁が丸太の前で長い詞を唱えていたのを思い出した。あれは、丸太に何を言い聞かせていたのだろう。

僕は、ウェレラさんの横顔を見ていた。

僕が知っているのは、重さと、綱と、車輪のことだけだ。中学の理科の教科書に載っていたことだ。ウェレラさんが言っているのは、祖先の言葉だ。

それなのに、二つは、同じことを言っていた。

◆

「mé kúndir sérinそんなことはするな!」

倉の奥から、太い声がした。

エルサンだった。倉の炉の主。去年の冬、僕に雑穀を回すなと言った男。毛皮の下の腹を突き出して、人をかき分けて前に出てきた。

「grúunela brándal dulándosドゥランドの役所が怒るぞ. brúumelan éndrai es orénos人が縁から落ちるぞ.」

炉の主たちが、また、ざわめいた。今度は、さっきと違うざわめき方だった。

エルサンの言うことは、間違っていない。崖では、人が死ぬ。去年の冬、僕は崖の途中の棚で、それを肌で知った。

でも、一つだけ違うところがあった。

僕は、エルサンの前に一歩出た。

「na dúla éndra si fáron人は荷と一緒には下りない. dúlo gandér下りるのは硬木だけ.」

言わなかったことが、一つあった。崖のすそまで継ぎ場を作れば、その継ぎ場に立つ人は、崖の途中まで下りなければならない。荷と一緒にではなくても。試しをするなら、そのときも、誰かが氷の棚へ下りる。

それを言えば、エルサンの言うとおりになる。だから、言わなかった。

エルサンは、僕をにらんだ。それから、倉の中の全員に向かって言った。

「mé duliþésa fáron es orénos縁から荷を落とさぬこと!」

ドゥランドの降ろし場の入り口に立っている、度量衡の碑の言葉だった。崖を測ったとき、僕が石を落とそうとして、ヒルヴァンに手首をつかまれた、あの決まり。

炉の主たちが、顔を見合わせた。

僕は、言い返す言葉を探した。落とすのではない。綱で下ろすのだ。でも、その違いを言う言葉を、僕はうまく組み立てられなかった。dulíþ- は「下ろす」で、「落とす」でもある。同じ言葉なのだ。

そのとき、倉の戸口の陰から、倉の老人が言った。かすれた、低い声だった。歌うような、古い節だった。

「krailésa funelár fáron te dulíþo fúnel綱が下ろす荷は綱番が預かるべし. krailésa funelár fáron te auríþo fúnel綱が上げる荷は綱番が預かるべし.」

知っている言葉だった。

旧道の上り口の、苔に埋もれた古い碑。家族みんなで、煤と布で写し取った、あの拓本の言葉だ。冬の終わりに、僕が布を見せて回ったとき、老人は首を振っただけだった。でも、二行とも、そらで覚えていたのだ。

綱で下ろす荷。綱で上げる荷。落とす、とは、どこにも刻んでいない。

ウェレラさんが、静かにつけ加えた。

「fáron te kráilo fúnel, na brúumo綱が持っている荷は、落ちない.」

エルサンは、口を閉じた。

でも、それで決まったわけではなかった。

そこから、長い言い合いになった。

「ké na vírimor brándalei?役人に言わなくていいのか」

誰かが言った。谷の丸太を町に置くこと自体を、苦い顔で指さす者もいた。早口の、町の年寄りの言葉で、半分も聞き取れなかった。灯の油が尽きかけて、ウェレルが一度、足しに立った。

寄り合いが決めたのは、こうだった。本物の硬木を下ろすのではない。試しに、木の端を一つだけ、一つ目の氷の棚まで下ろしてみる。氷の棚なら、今の綱場の綱が届く。若いころ一度、獣を追って崖を下りたことのあるヒルヴァンのほかは、誰も崖を下りない。うまくいかなければ、それで終わりにする。ドゥランドには、まだ何も言わない。

エルサンは、最後まで腕を組んでいた。でも、首を横には振らなかった。

◆

試しに下ろす木は、シラノがくれた。

倉には、冬の終わりに運んできた八本の丸太が、まだ寝かせてあった。

シラノは、前に来たとき、中に割れがあるとわかった、あの三本目の丸太を指さした。

「kráiso gandér só.この硬木は割れてる tául ó.持ってけ」

割れた丸太は、杭にはならないのだろう。

問題は、どこを切るかだった。割れのあるところを綱で吊ったら、途中で裂けるかもしれない。

トカリーニャが、丸太の前にしゃがんだ。

指の関節で、こつ、こつ、と叩いていく。前に印をつけた割れのところから、少しずつ端のほうへずらしながら。頭巾の耳を丸太に寄せて、目を半分閉じて。

しばらくして、手が止まった。もう一度、叩いた。少しずらして、叩いた。

「séndoここまで. es séndos, na kráisoここから先は、割れていない.」

トカリーニャは、丸太の木肌に、爪で小さな線を引いた。

シラノがうなずいて、鋸を取った。トカリーニャの引いた線より、手のひら一つぶん端のほうに鋸を当てて、挽きはじめた。硬木は硬かった。シラノほどの大男が汗をかいて、半刻かけて、ようやく端が落ちた。

落ちた木口を、トカリーニャが叩いた。それから、木口を指でなでて、割れのないことを確かめた。

僕を見て、短くうなずいた。

◆

端材の重さは、ウェレルが量った。

量った、と言っても、秤はない。ウェレルは端材を背負い枠に縛りつけて、一度だけ背負ってみた。膝を曲げて、伸ばして、下ろした。

「fáir fáronul四担ぎ.」

運び人の背中は、秤より確かなのだと、ウェレルは胸を張った。

上げる荷は、石を詰めた籠にした。端材より、少しだけ軽く。ウェレルが石を一つずつ入れては背負い、入れては背負いして、三担ぎに合わせた。

四担ぎが下りて、三担ぎが上がる。差は一担ぎ。その一担ぎぶんの重さで、巻き胴が回る。

石の籠は、先に氷の棚まで下ろしておかなければならない。いつもの綱で、ヒルヴァンとウェレルが下ろした。それから、ヒルヴァンが、その綱を伝って、自分で氷の棚まで下りていった。

去年の冬、僕が膝を抱えて座っていた棚だ。

ヒルヴァンは棚の上で、石の籠の縄を、もう一本の綱に結び直した。それから、上を見上げて、片手を挙げた。

◆

冬のあいだに組んだ仕掛けは、霧の季節のあいだも、ヒルヴァンが毎朝、軸に脂を引いて守っていた。凍った地面に膝をついて刻んだ歯止めの歯。ウェレラさんの古い山羊の革を巻いた、締め綱の輪。二本並んだ腕木の、新しいほうの根もとには、まだ削り屑がこびりついていた。

端材を、もう一本の綱の先に吊った。

腕木の先で、端材がゆっくりと揺れた。崖の外の、何もない空中に。下からの風が、端材のまわりで鳴った。

町の人たちが、綱場のまわりに集まっていた。ウェレラさん。セルヴィーニャ。倉の老人。シラノとトカリーニャ。エルサンも、少し離れたところに、腕を組んで立っていた。

歯止めの棒は、ウェレルが握った。

僕の合図で、ウェレルが歯止めを、ほんの少しだけゆるめた。

巻き胴が、きしんだ。

それから、ゆっくりと回りはじめた。

誰も押していなかった。

端材が、崖の縁の下へ沈んでいった。一腕。二腕。綱が、腕木の車輪の上を、低い音を立てて走った。

そして、もう一本の綱が、巻き胴に巻き取られはじめた。

崖の縁から、僕は腹ばいになって下をのぞいた。

端材が下りていく。その横を、下から、石の籠が上がってくる。

崖の途中の、何もない空中で、二つがすれ違った。

端材のほうが、少し速くなった。ウェレルが歯止めを押さえた。巻き胴が、ぐっと重くなって、また、ゆっくりに戻った。ウェレルの腕の筋が浮いていた。でも、押さえているのは、一人だった。

端材が、氷の棚に着いた。

下から、声が上がってきた。

「hóu!」

ヒルヴァンの声だった。

少し遅れて、石の籠が、崖の縁の上に顔を出した。セルヴィーニャが駆け寄って、籠の縁をつかんだ。

綱場のまわりは、静かだった。

誰も、何も言わなかった。

しばらくして、倉の老人が、一歩前に出た。崖の縁の、腕木の根もとまで。白いひげが、下からの風に揺れていた。

老人は、崖の下の棚に向かって、かすれた声で歌った。

「ín, glünóra. dulénde fláinin.一つ、氷の棚。軽く下りよ」

何百年も、旧道の荷担ぎが歌ってきた歌。荷が棚に着くたびに、送ってきた言葉。

セルヴィーニャが、小さな声で続けた。それから、ウェレラさんが。町の人たちが、一人、また一人と。

「dulénde fláinin.」

軽く下りよ。

落ちるのではなく、歩いて下りるように。

僕は、崖の縁に置かれた石の籠を見ていた。

下から上がってきたものを迎える言葉は、この町の歌には、まだない。谷の巫の歌の、もう半分。

aurénde fláinin。

声には出さずに、口の中だけで言った。

隣で、トカリーニャが、腕木の根もとを、指の関節で二度叩いた。

エルサンは、腕を組んだまま、黙っていた。でも、歌が終わるまで、その場を離れなかった。

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