第15話 尋の息は昇る

セルヴィーニャが北の高みへ発ってから、九日が過ぎた。

朝ごとに霜が厚くなった。屋根の板も石垣も、畑に残った刈り株も、夜明けには白く粉をふいたようになった。日が昇ると、そこから湯気のような薄い靄が立った。空はどこまでも青く、乾いていた。北の山並みの頂には、いつのまにか雪が光っていた。

僕はドゥランドへは戻らなかった。

最後の日、レウマンさんは、次に来たときの荷札の束をいつもどおり僕の机に置いた。町へ帰り、休みが終わっても、僕は帳場へ戻らなかった。行けば、また机の端で数を出す。どれだけ速く数を出しても、紙の上では荷のままだ。そう思うと、狩人の小道を下りる気になれなかった。

ウェレルが一人でドゥランドへ下りていき、三日後に戻ってきた。レウマンさんから何か言づてを預かってきたらしかった。ウェレラさんとヒルヴァンが、炉の前で長いあいだウェレルの話を聞いていた。早口で、僕にはところどころしか聞き取れなかった。lisár という音が何度か出た。僕の名前も出た。

僕は聞き取れないふりをして、薪を割りに外へ出た。

昼は薪を割り、水を汲んだ。斧の柄が冷えきっていて、握るたびに手のひらの熱を奪った。夜は炉の灰に字を書いた。灰に字を書いてくれるセルヴィーニャがいないので、覚えた字を端から並べて、また消した。

ウェレラさんは毎晩、戸口の外に出て星を見ていた。何も言わずに出ていって、何も言わずに戻ってきた。戻ってくると、肩と髪に夜の冷たさがついていた。

◆

十日目の夕方、北の道に二つの人影が見えた。

最初に気づいたのはヒルヴァンだった。戸口に立って、長いあいだ北のほうを見ていた。それから、何も言わずに外へ出ていった。

僕も戸口から外をのぞいた。

夕日が、霜の溶けた道をあかがね色に染めていた。その道を、二つの影がゆっくりと歩いてくる。背の高い影と、少し低い影。ヒルヴァンが道の途中まで迎えに出て、背の高いほうの荷を黙って受け取った。フレウレラさんだった。荷を渡したあと、フレウレラさんはヒルヴァンの腕に一度だけ手を置いた。

低いほうの影が、こちらへ駆けてきた。

セルヴィーニャだった。

十日前より、顔が少し細くなっていた。頬と鼻の頭が風に焼けて赤く、唇の端が乾いて切れていた。毛織りの上着の上に、見たことのない色の帯を締めていた。薄い、空のような青だった。

それから、髪。いつも背中で跳ねていた一本の編み髪が、なかった。編んだ髪は首の後ろで丸く巻かれて、骨の留め具で留めてあった。フレウレラさんと同じ形だった。

セルヴィーニャは戸口の前で足を止めた。肩で息をしていた。息が白かった。

僕の顔を見て、少しだけためらった。

それから背筋を伸ばして、自分の胸に手を当てた。

最初に会った朝と、同じ仕草だった。

「þélim selvélan.」

セルヴェラ。

セルヴィーニャの、-íña が消えていた。かわりに、ウェレラさんやフレウレラさんと同じ終わり方をしていた。weréla。fleuréla。selvéla。

子どもの名前ではない。大人の名前だ。

僕は胸に手を当てた。

「þélim híro.」

それから少し迷って、その名前を口に出した。

「selvéla.」

何か月ものあいだ、家の外では té と呼んできた。人前で名前を呼べば笑われる。だから呼ばなかった。でも、大人の名前なら、家の外でも呼んでいいはずだ。

セルヴェラはぱちぱちと瞬きをした。それから顔をくしゃっとさせて、笑った。

笑いながら、目の端を手の甲でこすっていた。

selvéla。人前でも家族の前でも、これからはそう呼ぶ。この子の大人の名前だ。

でも、と僕は思った。

セルヴィーニャ。最初の朝、炉の前で、この子が胸に手を当てて名乗った響き。水がめを指さして ílmo só と教えてくれた声。雪の上に、小枝で字を書いてくれた手。家の中でだけ呼ぶことを許してもらった名前。笑われて、間違えて、何か月もかけてやっと意味のわかった名前。

その響きを全部捨ててしまうのは、惜しかった。

心の中では、セルヴィーニャと呼ぶことにした。声に出さなければ、子どもの名前で呼んでも、たぶん怒られない。

◆

その夜、炉のまわりに六人が座った。

ウェレラさん。ヒルヴァン。フレウレラさん。ウェレル。セルヴィーニャ。それから、僕。

十日ぶりに、炉のまわりが狭かった。膝と膝がぶつかった。粥の鍋が、いつもより早く空になった。

セルヴィーニャは北の高みの話をしたがった。山の上の社のこと。岩の割れ目を吹き抜ける風の冷たさ。社の前で、自分の詩を読み上げたときのこと。

「glóuma virá言葉 némes私の. salóur auríþa léuma風 élan an ilánais星々へ.」

手振りが大きくて、早口で、ところどころ知らない言葉がまじった。自分の言葉がどうかした、と両手を胸の前でぶるぶる震わせてみせて、それから風が、星々へ、と手を高く払った。たぶん、声が震えたけれど、風が詩を上へ運んでくれた、というようなことだ。ウェレラさんがうなずくたびに、セルヴィーニャの顔が明るくなった。

詩そのものは、聞かせてくれなかった。僕が「pórin ésa mélna táses?どんな詩だったの」と聞くと、セルヴィーニャは慌てて手を振った。

「nésだめ. mélna séこの ésa aursárar, na éndrar人のものじゃない.」

誰のものなのかは、わからなかった。わかったのは、僕が聞いていいものではない、ということだけだった。

話が一段落すると、炉のまわりが静かになった。

ウェレラさんが僕を見た。それから家族を順に見回して、言った。

「sórel今日 vándimor量る pón kúndimor何をするか híroi尋に.」

量るとは、何をだろう。僕に何をするかを、量る……決める?

最初に口を開いたのは、ウェレルだった。

「lísa híro尋は書く. rímba híro尋は数える.」

崖道の早口ではなかった。一語ずつ区切って、町の話し方で、帳場の荷札を読み上げるように言った。それから指を折って続けた。

「néula好き ólmar爺さん lisárar書記たちの ré wéina híro lisár書記. brándal silóurも. esíro þrén段 híroi尋に, méiran tambór雑穀 élei. esós méira渡す híro grúndo bóralos álos白い家の. rímbim ném俺は数えた. méira渡せる.」

ところどころの単語は聞き取れた。でも、つながりがわからなかった。特に grúndo がわからない。

「pó éso grúndo?」

ウェレルは少し考えた。それから、セルヴィーニャの膝の横にあった小さな壺を、ひょいと取り上げた。旅の残りの、炒った木の実が入っている壺だ。セルヴィーニャが眉を吊り上げて、手のひらを突き出した。返して。ウェレルは壺を抱えたまま、その手のひらを指さした。

「grúndo.」

セルヴィーニャがウェレルの脛を蹴って、壺を取り返した。

借りだ。取ったものを、返さなければならない、その間のこと。

では、grúndo bóralos álos白い家の借りとは何だろう。

白い家と聞いて、思い当たるのは二つあった。

ドゥランドの家は、どれも石と木の色のままだ。その中に、壁を白い漆喰で塗った建物が二つだけある。白いので、遠くからでもよく目立った。

一つは、降ろし場の上の、帳場の石の小屋の隣に建っている。緑の上着の男が出入りするのを、何度も見た。

もう一つは、町の上手、帳場へ通う道の途中にある。戸口の上に、都の書体の板が掛かっていた。灰色がかった青の上着の人が出入りするのを、ときどき見た。

どちらも、運び人が入っていくのは一度も見たことがない。毎朝その前を通っていたのに、何をする所なのか、考えたこともなかった。役所のようなものだろう、と思っていただけだ。

「grúndo借り bóralos álos白い家の?」

僕は聞きながら、崖の下のほうを指さした。ドゥランドの白い家か、というつもりだった。

ウェレルはうなずいた。それから少し言いよどんで、さっきより、もっとゆっくり言った。

「lúin lísan書く éndran人を un lourliséi, méiran渡す tambór雑穀 bóraloi áloi白い家に. torárei, éso prámbo値 gróm. esós táulimor取る tambór雑穀 es kéndoros市の. éso grúndo借りになる.」

人を、何かに書く。そのとき、白い家に雑穀を渡す。値が、どうにかなる。だから、市から雑穀を取る。それが、借りになる。

lourliséi は知らない言葉だった。人を書きこむもの。白い家にある、何か。

人を書くのなら、町の上手のほうだろう。あそこに出入りしていた灰青の上着の人たちは、レウマンさんと同じ、墨で黒くなった指をしていた。

でも、言っていることの形はわかった。僕を、どこかに書く。そのために、白い家に払う。払う雑穀がないから、借りる。

借り。僕を書くために。

「ném僕が méirim渡す grúndo借り. ném僕が rímbim数える.」

自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。短い文を二つ並べただけの、子どもみたいな言い方だった。でも、言いたいことは、それで全部だった。

炉の火を見ていたヒルヴァンが、低い声で言った。

「éso grúndo借りは gróm.」

gróm がわからなかった。僕の顔を見て、ヒルヴァンはそれに気づいたらしかった。

ヒルヴァンは立ち上がった。炉の脇の、薪の束を置く台にしている大きな石に両腕を回して、腰を落とした。石が床から指一本ぶん浮いた。ヒルヴァンの首に筋が立った。

「gróm.」

石を下ろすと、床の板がどすんと鳴った。

それからヒルヴァンは、炉の縁にくっついていた鳥の羽根を一本つまんで、ふっと吹いた。羽根は火の熱に乗って、ゆらゆらと煙穴のほうへ昇っていった。

「fláin.」

fláin なら知っている。dulénde fláinin。軽く、下りよ。

軽い、の反対。gróm は、重い。

「éso grúndo gróm借りは重い.」

ヒルヴァンは座り直して、石を顎で示した。

「éso gróm重い es mónos石. lúin faronéres担ぐ ó, naない dulíþes下ろす ó. ké þílesわかる ó?」

石より重い。担いだら、下ろせない。わかっているのか。

わかっている、と言いかけて、やめた。

大石段で荷を担いだことはある。肩に食いこむ紐の痛さも、膝の震えも知っている。でも、あの荷は、上で下ろせた。下ろせない荷を、僕は担いだことがない。

ウェレラさんが口を開いた。

小さな声だった。家族に向かってではなく、僕に向かって。

「na áuro fáron.荷は昇らない」

ウェレラさんは自分の胸に手を当てた。それから天井の煙穴のほうへ、手のひらを上に向けて差し上げた。星を示すときの、あの仕草だった。

「áura selvá híros.尋の息は昇る」

年の始まりの朝、戸口の外でウェレラさんが教えてくれた言葉を思い出した。áura selvá an ilánais息は星々へ昇る。

「esíres fáron荷 un plánei帳簿, lúin áurses昇るとき, na áura selvá tásesお前の息は昇らない. na lísan fáron un lourliséi荷は lourliséi に書かれない. esós na auríþa páin þelán táses an ilánaisだから誰もお前の名を星々へと昇らせない.」

lúin áurses昇るときというのは、たぶん死ぬときのことだ。

荷は、lourliséi に書かれない。書かれていない者の名は、誰も星へ送ってやれない。lourliséi は、名前を書いておく帳面のようなものかもしれない。

戸籍、か。

ウェレラさんの声は静かだった。

「na néulim ó, ném.わたしは、それが嫌なんだよ」

ウェレラさんが毎晩星を見上げていた理由の、一つの端っこに、手が届いた気がした。僕がいつか死ぬときのことを、僕より先に考えていたのだ。

フレウレラさんが、静かに言った。

「weiníre híro尋 dórvarosうちの者, na séna見ない senár役人 híro.」

尋がうちの者に、なれば。役人は、尋を見ない。

役人が町に来た日のことを思い出した。片方しかできていなかった毛皮の履き物。見られてしまったスニーカー。僕を頭のてっぺんから足の先まで眺めた、黄色い上着の男の目。

見る、というのは、ああいうふうに見ることなのだ。検める。うちの者になれば、役人はもう、僕をああいう目で検めない。

フレウレラさんは、元の顔に戻っていた。それから部屋の隅の木の箱を、ちらりと見た。ブレザーとスニーカーが沈んでいる箱を。

炉のまわりが静かになった。

セルヴィーニャが、膝を抱えたまま顔を上げた。家族を見回した。それから、まっすぐ前を向いて、はっきりと言った。

「kráilimor.私たちが持つ」

町の井戸の前で、黄色い上着の役人が「誰が、こいつを持つ」と聞いたとき、ウェレラさんが答えた言葉だった。あのとき、この子はまだ子どもの名前で呼ばれていて、ウェレラさんの後ろでうなずいただけだった。

今は、自分の口で言った。大人の名前で。

理由は、何も言わなかった。

ウェレラさんがセルヴィーニャを見た。それから、ヒルヴァンを見た。

家族の全員が、ヒルヴァンを見ていた。

ヒルヴァンは長いあいだ炉の火を見つめていた。弓を張るときと同じ、硬い顔だった。それから薪を一本取って、炉に足した。火の粉が、煙穴のほうへ昇っていった。さっきの羽根と同じ道を。

「térinそのとおりに.」

ヒルヴァンはそれきり何も言わなかった。

◆

三日後、ウェレラさんとヒルヴァンとウェレルとセルヴィーニャと僕の五人で、ドゥランドへ下りた。フレウレラさんは、家と山羊を見るために残った。

狩人の小道は、朝のうちは霜で滑った。ウェレラさんは杖をついて、一度も休まずに下りた。

その夜は上の宿に泊まった。運び人の寝小屋ではなく、宿の狭い一間だった。壁の石が煤で真っ黒だった。寝床の藁は湿っていて、古い煙のにおいがした。

ヒルヴァンとウェレルは、すぐに眠った。セルヴィーニャは北の高みの疲れが残っていたのか、横になるなり寝息を立てはじめた。

ウェレラさんは眠らなかった。

小さな灯の前に座って、じっと何かを考えていた。それから、指を折りはじめた。

節のついた声が、口からもれはじめた。歌というより、唱えるような。とても低くて、ほとんど息だけで、何を言っているのかは聞き取れなかった。ウェレラさんはその節に合わせて、指を一本ずつ折っていった。片手が終わると、もう片方の手。それが終わると、また最初の手。

長いあいだ、それが続いた。灯の油が、じりじりと減っていった。

やがて、声が止まった。ウェレラさんは最後に折った指を見つめていた。それから、ゆっくりと振り返って、寝床の中の僕を見た。

僕は目を閉じて、眠っているふりをした。

薄目を開けると、ウェレラさんはまだ僕を見ていた。長いあいだ、見ていた。それから手のひらを上に向けて、自分の目の高さより上へ、そっと差し上げた。天井の向こうの、見えない星に向かって。

何かを、聞いているように見えた。

しばらく、そのまま動かなかった。

それから手を下ろして、灯を吹き消した。

◆

次の朝、町の上手の、あの白い建物へ行った。

戸口の上の板の字は、都の書体だった。前を通るたびに見上げていたのに、今になって読もうとしても、半分も読めなかった。

毎朝、前を通るだけだった戸口を、初めてくぐった。中に入ると、紙のにおいがした。帳場の紙のにおいより、古くて乾いていた。壁ぎわの棚に、巻いた紙が何百本も、横に寝かせて積んであった。巻物の端には、それぞれ小さな木の札が結んであった。

机の前に、年を取った男が座っていた。上着の色は、灰色がかった青。指先が、墨で黒く染まっていた。レウマンさんと同じ指だった。字を書くことが仕事の人の指。

ウェレラさんはその男の前に膝をついて、長いあいだ話した。改まった言い回しばかりで、僕には半分もわからなかった。男はときどきうなずいて、ときどき首を振った。それから、指を何本か立ててみせた。ウェレラさんの顔が、こわばった。

値段だ。この建物で、僕を書くための。

その足で、ウェレルが僕たちを、町の下のほうの、大きな倉の並ぶ通りへ連れていった。一軒の前で、ウェレルは太った、よく笑う男と長いあいだ話した。男はウェレルの肩を何度も叩いた。ウェレルは何度も頭を下げた。いつも胸を張って歩くウェレルが、頭を下げるのを、僕は初めて見た。

男は紙を一枚取り出した。

証文だった。帳場で何百枚も見てきた形だった。日付。相手。品名。数。その下の行に、念押し。最後に、印の欄。

品名は、雑穀だった。数のあとに、壺を表す字が添えてあった。

数の欄に、高原の数字が書いてあった。7七十。7七 の後ろに、十の輪が一つ。

「nélombar七十.」

読み上げると、男が目を丸くした。紙と僕の顔を見比べた。

僕は数字の下の念押しの行に目を移した。この紙では、念押しの字が、工の字のような形の括りで前と後ろを挟まれていた。その中の字を、一つずつ音に直していく。帳場で毎日やってきたことだった。nélombar。数字と、合っている。

「vérinその通り.」

僕が言うと、男は腹を揺すって笑った。それから、ウェレルに何か言った。ウェレルは肩をすくめてみせた。すくめた肩が、少し上がったままだった。

七十。

落ちてきたばかりの冬、町の倉で数えた寄り合いの雑穀は、二十八壺だった。

その、二倍半。

男は紙の端を指でとんとんと叩いて、ヒルヴァンに向かって言った。

「éso grúndo dórvaroiこれはドルヴァルの借りだ.」

七十壺の雑穀の、借り。

白い建物で、灰青の上着の男が指を立てたのは、この値段だったのだ。それを払うために、この家は借りをつくる。

僕のために。

ヒルヴァンが、黙って紙を受け取った。それから腰の袋から小さな木の印を出して、紙の端に押した。

その手が、少しだけ震えていた。

弓を引くときも、崖の綱を握るときも、震えたことのない手だった。

僕はその手を見ていた。

あの夜、炉の前で、僕は借りを返すと言った。ウェレルは、返せると言った。書記になれれば、手当が出る。手当で少しずつ返す。書記の手当がどれくらいかは、手当を渡す帳面の計算も手伝ってきたから知っている。一年にどれだけ。そこから家で食べる分を引いて、どれだけ残るか。七十を、その残りで割る。

頭の中の計算は、すぐに終わった。

短くはなかった。でも、終わらない数ではなかった。

書記になれれば、払える。何年かかっても、払える。

倉の男は、最後に、焼印を押した小さな木の札を一枚、ウェレルに渡した。七十の数が刻んであった。壺を担いで運ぶのではないらしい。雑穀は倉に置いたまま、この札が、白い建物へ行くのだ。

◆

白い建物に戻ると、ウェレルが、倉の男の札を書記官の机に置いた。書記官は札の焼印を指でなぞって、小さくうなずいた。それから、棚の中から巻物を一本取り出した。

机の上に、ゆっくりと広げた。

古い紙だった。黄ばんで、端がすり切れていた。上から下へ、字の列がびっしりと並んでいた。行ごとに、字の形が少しずつ違った。墨の色も違った。黒々とした行もあれば、茶色く褪せた行もあった。何人もの違う人の手で、何十年も何百年もかけて、書き足されてきたのだ。

ウェレラさんが、巻物の前に進み出た。

膝をついて、背筋を伸ばした。目を閉じた。

そして、声を上げた。

「fóndaro dórvarosドルヴァルの!」

歌うような声だった。

手習い歌とも、岩棚の歌とも違った。もっとゆっくりで、もっと古い節だった。

そして、この節には聞き覚えがあった。

ゆうべ、宿で、ウェレラさんがほとんど息だけで唱えていた節だ。

ウェレラさんは、そのまま唱えつづけた。

意味のわからない音の連なりだった。短い言葉が来て、少し間があって、決まった言葉が挟まる。また短い言葉、間、決まった言葉。lóur という音が、何度も繰り返された。

祈りか、呪文のようなものだと思った。大事な書きものの前で唱える、決まった文句。お経みたいなものかもしれない。

ウェレラさんは目を閉じたまま、一つもつかえなかった。長かった。五十か、百か。数えるのをやめた。窓から差しこむ光の中で、埃がゆっくりと回っていた。

そのうち、聞き覚えのある音が混じった。

weréla。

僕は顔を上げた。

ウェレラさんは自分の名前を唱えて、また決まった言葉を挟んだ。そして、次の音。

hílvan。

fleuréla。

wérel。

名前だ。

呪文じゃなかった。今まで聞いていた、意味のわからない短い言葉の一つ一つが、全部名前だったのだ。この家の人たちの。ウェレラさんより前の、顔も知らない、ずっと昔の人たちの。

上から下へ。古い人から、新しい人へ。最初の一人から、今まで。

ゆうべ、ウェレラさんが宿で指を折っていたのは、この名前だったのだ。

lourliséi。人を書きこむもの。名前を書いておく帳面。それが、この巻物なのだ。

ウェレラさんは次の名前を唱えた。

selvéla。

隣で、セルヴィーニャが小さく息をのんだ。

北へ発つ前には、この列に入っていなかった名前。北の高みで詩を捧げて、もらってきた名前。

ウェレラさんは、そこで言葉を切った。

目を開けた。

僕のほうを見た。

それから、最後の名前を唱えた。

「híro.」

◆

書記官が筆を取った。

巻物のいちばん下の、まだ何も書かれていないところに筆を当てた。書きはじめる前に、右から左へ、すっと線を引いた。線の左の端がくるりと巻き上がって、そのまま最初の字になった。

セルヴィーニャが雪の上で見せてくれた、あの書き出しだった。

書記官は、一行だけ書いた。

esa hiro dorvaros.

僕はその一行を読めた。

真ん中の言葉の下には、あの波線が引いてあった。崖の下から来た言葉の印。僕の名前は、紙の上でも、やっぱり崖の下の言葉に聞こえるのだ。

でも、その後ろ。

dórvarosドルヴァルの者。

ésa híro dórvaros尋はドルヴァルの者だ。

綱の荷では、なくなった。少なくとも、この巻物の上では。

それから、もう一つ気づいた。

ésa の、最後の字。aa だ。o じゃない。

この紙の上では、僕は人だ。

◆

書記官は筆を置いて、印を押した。墨が乾くのを待ってから、巻物を巻き直して、棚に戻した。何百本もの巻物の中の、一本に。どれがそれなのか、もう僕には見分けがつかなかった。

ウェレラさんは膝をついたまま、しばらく動かなかった。

それから立ち上がって、僕の前まで来た。

僕の胸を、とん、と突いた。それから、自分の胸を同じように突いた。

それから手のひらを上に向けて、目の高さより上へ差し上げた。ゆうべ、宿の灯の前で見た仕草だった。

今度は、長くは止めなかった。すぐに下ろした。迷いのない手つきだった。

何も言わなかった。

僕は、何か言わなければ、と思った。

ありがとう、では足りない。

僕がもらったのは、名前だった。家の名前をもらったのだ。

帳場で、商人や役人が書記たちの前で同じ形の言葉を言うのを、何度か聞いたことがある。改まった場で、自分が誰なのかを言うときの言い方。自分の名前に、家の名前と、自分の段を、一息に添える。長ければ長いほど、誇らしいらしい。

僕の名乗りは短い。ほかの人たちが家の名前と段のあいだに挟む、長い言葉の連なりを、僕は知らない。

でも、段なら言える。ドルヴァルの者になったのなら、僕の段は、たぶんこの家と同じだ。大石段の運び人の、ウェレルのいる段。

僕はウェレラさんの前に膝をついた。帳場で見た商人たちのように、頭を下げた。そして、ゆっくりと一語ずつ言った。

「duþélim híro, dórvaros, dúlenan réum þrénul.名乗らせていただきます。ドルヴァルの尋。九段下った者です」

レウマンさんが板壁に描いた、十段の石段。そのいちばん下の段。九つ下りた段。

前は、その石段のどこにもいなかった。石段の外の、小さな点だった。

今は、ウェレルと同じ段にいる。段の高さは、正直どうでもよかった。ドルヴァルの者として書かれたことのほうが、ずっと大きかった。

顔を上げると、ウェレラさんが目を閉じていた。

ヒルヴァンは横を向いていた。ウェレルは口を半分開けたまま、それから、にっと笑った。セルヴィーニャは両手で口を押さえていた。

ウェレラさんが目を開けた。

何も言わなかった。ただ手を伸ばして、僕の頭をぽんぽんと二回叩いた。字を灰に書いた夜と、同じように。

白い建物の窓から乾いた風が吹きこんで、棚の巻物の木の札を、からからと鳴らした。

――第三部 ネタ帳 了

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