小説
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俺は、しゃべるのが速い。
自分でもわかっている。都の家でも、書記※1字を書き、帳簿や記録をつける役人。書の司の学び舎で育てられ、身分は四段下り。目上なので、下の者は名で呼ばずに「書記の方」と言う。の学び舎※2字や詩を学ぶ所。とくに都で書の司が書記を育てる場をいい、通うのはふつう書記の家の子である。でも、ドゥランド※3縁の肩の中ほどにある、今の崖道の町。崖道の上り口と降ろし場があり、崖道の商人や運び人が崖を下りる前に泊まる。の帳場※4降ろし場の荷と数を帳簿に書きつける所。書記たちが荷札を読み、数え盤で確かめる。でも、言われることは同じだった。セルヴァン、息をしろ。セルヴァン、ゆっくり言え。セルヴァン、黙れ。最後のは、たいてい書記の方だ。名前を口にするなど、とんでもない。帳場の誰も、あの方を名前では呼ばない。
でも、しかたがない。頭の中に、言いたいことが次から次へ湧いてくるのだ。一つ言い終わる前に、次のが喉まで来ている。それを待たせておくのは、客を戸口に立たせておくのと同じくらい、無作法だと思う。
だから俺は、しゃべる。
あの日から、ずっと、しゃべる相手が一人増えた。
◆
ヒロ。
つい二十日前まで、段の外の者※5段をもたない者。干潟の人や外から来た者で、家名も系譜もない。自分で訴え出ることも、証人になることもできず、段のある誰かが引き受けなければ扱えない。だった男。綱の荷※6綱場の綱で引き上げた荷。綱にかけたものは綱番が預かる決まりなので、綱で引き上げられた尋は、帳面の上では綱番の炉が預かる荷として書かれた。。ドゥランドの降ろし場※7崖の縁に腕木と巻き胴をすえて、硬木を綱で崖の下へ吊り下ろす所。ドゥランドにある。で、荷として帳面に書かれた男。
そして、俺の帳面の誤りを見つけた男だ。
初めて名乗り合った朝のことは、よく覚えている。俺が名乗り終えると、あいつは慌てて胸に手を当てて、ドルヴァルのヒロ、九段下りの者、と言った。それで終わりだった。源の名も、瀬※8系譜の世代。家系を川の流れにたとえ、源から何瀬下りたかで世代を数える。の数もない。帳場で聞くどの名乗りよりも短かった。
笑いかけて、やめた。あいつは、短いことを恥じている顔ではなかった。持っているものを、全部並べた顔だった。
あれは、ひどい日だった。月の終わりの頁の合計を、俺が出した。照らし合わせの済んだ行だから、数字だけ読んで盤に置いた。かすれた輪※9高原の数字で位を表す印。輪が一つで十、二つ積めば百、三つで千。一〜九の字を前に置くと、その位に掛かる。を、読み落とした。百四を、十四と読んだ。九十足りない合計を、俺は清書して、書記の方の机に置いた。
その九十を、あいつが、数え盤※10縦の線に白と黒の石を並べて数える板。そろばんのようなもの。も使わずに、頭の中だけで見つけた。
書記の方は、それから三日、俺と口をきかなかった。
三日だ。俺にとって、三日しゃべってもらえないのが、どういうことか。帳場の誰に話しかけても、書記の方が黙っている相手と口をきく者はいない。俺は三日、荷札※11荷に結びつける木の札。品名・数・念押し・送り主・印が書いてある。役の印にも同じ札を使う。とだけ話していた。
だから、あいつの念押し※12数字のあとに、同じ数を字で書いて括りで挟む決まり。数字の書き換えを防ぐ。を俺が書くことになったと聞いたとき、正直、腹の中で少し笑った。いい気味だ、と思ったわけじゃない。ただ、間近で見てやろうと思った。あの速さの、どこに種があるのか。
◆
種は、なかった。
少なくとも、足し算には。
あいつは、荷札の束を、上から目で追っていく。追い終わったときには、もう合計が出ている。俺は、その合計の隣に念押しを書き、盤で確かめる。盤の石を弾く音が終わるのを、あいつは黙って待っている。合っている。毎回、合っている。
悔しいが、足し算なら、俺の盤も遅くない。都の学び舎で、盤の速さで俺に勝てた者は、三人しかいなかった。あいつの頭の中の速さと、俺の指の速さは、だいたい同じだった。
違ったのは、掛け算だった。
その日、上の宿※13ドゥランドの上手の古い一角。降ろし場ができる前からの宿町で、崖道の商人が泊まる。降ろし場へは大石段を下りる。の主が、凍りの頃※14乾風期の後半。霜が降り、湖も川も凍る、一年でいちばん寒い時期。綱が凍るので、崖から硬木を下ろすのも止まる。日本の冬にあたるが、高原の人は「冬」という季節を立てない。のあいだ倉に預ける塩の箱の預かり賃を、前もって出してくれと言ってきた。二百三十八箱を、四十七日。
盤では、掛け算は足し算の繰り返しだ。二百三十八を、四十七回足す。
もちろん、本当に四十七回足す馬鹿はいない。二百三十八を一つ上の線へずらして、二千三百八十を四回。それから二百三十八を七回。十一回で済む。これは、学び舎で俺が自分で見つけたやり方だ。教師にも褒められた。
俺は、盤の上で十一回、石を弾いた。
一万千百八十六。
顔を上げると、あいつはもう、自分の板に 86 と書き終えていた。輪も、念押しも、きちんとついていた。
俺より、少しだけ速かった。少しだけだ。
でも、俺は見た。
あいつの板の端に、黒い汚れが残っていた。炭の粉だった。あいつの袖口も、黒かった。何かを書いて、袖で消したのだ。
あいつは俺の目に気づくと、袖口を、そっと机の下へ引っこめた。
◆
その日の帳場が閉まってから、俺は灯を一つ残して、あいつの机の下をのぞいた。
誰もいない帳場は、昼より広く見えた。炉の火は落としてあって、吐く息が灯の明かりの中で白くなった。人の机の下をのぞくなど、書記の家の子のすることではない。わかっていた。
あった。
脂の木の、反り返った古い板。帳場で使い古した荷札の板を、裏返したものだ。その上に、炭で何か書いて、袖でこすった跡があった。こすりきれていなかった。
俺は、板を灯に近づけた。
高原の数字だった。
でも、変な書き方だった。
位の輪が、ない。数字だけが横に並んで、それが何段も、上下に重ねて書いてある。段と段のあいだには、ところどころ横に線が引いてあった。
答えは、一万千百八十六。
輪がないのに、そう読めた。
なぜ読めたのか、しばらくわからなかった。それから、わかった。
縦に、そろっているのだ。
右の端の列が、一の位。その左が、十の位。その左が、百の位。どの段でも、同じ位の数字が、同じ縦の列に並んでいる。
これは盤なのだ。盤の線を、横に寝かせて書いたのだ。
俺は、指で、数字の列をなぞった。二百三十八の下に、四十七。その下に、二百三十八に七を掛けた、千六百六十六。その下に、二百三十八に四を掛けて、一つ左へずらした、九百五十二。それを、足す。
十一回も弾かない。
二段書いて、一度足すだけだ。
◆
でも、俺がいちばん驚いたのは、そこじゃなかった。
その数字の並びが、消えずに、残っていることだった。
盤は、答えしか残さない。
石を弾いて、弾いて、最後に盤の上に残っているのは、答えだけだ。途中で何をしたのか、どこで何を足したのか、石はもう覚えていない。だから帳場では、二度数える。二度やって同じになった数だけを書く。間違えたら、どこで間違えたのかは、誰にもわからない。最初から、全部やり直すしかない。
あいつの板は、違う。
一段目が合っているか。二段目が合っているか。足し算が合っているか。一つずつ、あとから確かめられる。間違えたら、間違えた段が、そこに残っている。
俺の、あの月の終わりの合計が、こうして残っていたら。
どの行で、何を読んで、何を置いたのか。書記の方は、三日も黙っていなくて済んだかもしれない。
灯の下で、俺は長いあいだ、反り返った板を見ていた。
◆
次の朝、俺は、あいつが机に着く前に、板をあいつの机の上に置いた。
あいつは、板を見て、俺を見た。
俺は、しゃべった。いつもの速さで。これはなんだ、盤を寝かせたのか、輪はどうした、輪がないと書き換えられるぞ、書記の方に知れたらどうする、いや、そんなことはどうでもいい、これはどうやって掛けるんだ、なぜ一つずらす、ずらしたところは空くだろう、空いたところはどうするんだ。
あいつは、ぽかんとして、俺を見ていた。
一つも、わかっていない顔だった。
俺は、口を閉じた。
息を吸った。
生まれて初めて、ゆっくりしゃべった。
「これは、盤か」
あいつの顔が、ぱっと明るくなった。
「盤。寝かせた」
短い言葉だった。あいつの言葉は、いつも短い。でも、ちゃんと合っている。
あいつは、炭のかけらを拾って、板の空いたところに書いてみせた。二百三十八。その下に、四十七。七を掛ける。四を掛けて、一つずらす。足す。
ゆっくり書いた。俺に見せるために。
それから、あいつは、もう一つ、書いた。
百四。
14。
十の位の列の、何もないところに、あいつは小さな輪を書いた。
「何もない。盤の、石のない線」
俺は、思わず、あいつの手から炭を取り上げた。
◆
「輪は、だめだ」
ゆっくり言った。二度目だ。慣れてきた。
高原の数字では、輪は位だ。一つの輪が十、二つ積めば百、三つ積めば千。そこに、何もないという意味の輪を混ぜたら、読む者が混乱する。
あいつの書いた百四を、帳場の誰かが読んだらどうなるか。一、十の輪、四。一・十に四。十四だ。
百四を、十四と読む。俺があの日やった読み違えと、そっくり同じだ。
あいつは、黙って聞いていた。わかったかどうかは、わからない。でも、俺が輪を指さして首を振るのは、わかったらしい。
じゃあ、何を書くか。
俺は盤を見た。机の端に置いた、俺の盤。縦の線が九本。石のない線は、ただの線だ。黒い、まっすぐな線。
俺は、炭で、十の位の列に、短い横の線を一本引いた。
一、横の線、四。
「何もない。線だけの、線」
あいつは、しばらく、その横の線を見ていた。
それから、顔を上げて、笑った。
あいつは、めったに笑わない。笑っても、口の端が少し上がるくらいだ。それが、そのときは、歯を見せて笑った。俺の手の炭を指さして、何度もうなずいた。
笑うと、あいつは年より幼く見えた。
「いい。それ、いい」
◆
それから、帳場が閉まったあと、俺たちは灯を一つ残して、二人で荷札の板の裏に数字を書いた。
あいつが掛け算を書く。俺が、同じ掛け算を盤で弾く。答えを比べる。俺が掛け算を書く。あいつが、俺の書いた段を、一段ずつ指でたどって確かめる。
割り算もあった。割り算は、ひどく面倒だった。あいつの書き方でも、面倒だった。でも、盤よりはましだった。
灯の油は、俺が出した。あいつは手当の一枡を粥にして食べている。残りは借りの返しに回る。油を買う余りなどないことくらい、帳場の書付を見ればわかる。
帳簿には、書かない。それは、二人とも、わかっていた。輪のない数字は、書き足せば、いくらでも変わる。帳簿の数字は、これまでどおり、輪をつけて、念押しを添えて書く。
計算は、板の裏で。
記録は、帳面で。
盤で弾いていたことを、板の裏に書いて、残すだけだ。
俺は、これを「紙の盤」と呼ぶことにした。板の裏だけど。紙のほうが、聞こえがいい。
◆
凍りの頃が来たら、俺は都へ帰る。
学び舎の師に、帳場で何を学んだか、話さなければならない。
紙の盤のことを話したら、師は、何と言うだろう。
輪のない数字だ。下の国※15崖の下の干潟の国(dálor「下の国」)。泥の原に杭を打って暮らす人々の土地で、潮で日を数え、十二で数える。高原の人は下の国を低く見て、名もあまり口にしない。の者が持ちこんだ書き方だ、と言うかもしれない。九段下りの、それもつい先ごろまで段の外にいた者の思いつきを、二十三瀬の書記の家の子が持ち帰るのか、と言うかもしれない。
でも、数字は、高原の数字だ。並べ方は、盤の並べ方だ。何もない線は、盤の線だ。
どこにも、下の国のものは入っていない。
それに、横の線は、俺が引いた。
俺は、夜、宿の寝床で、自分の帳面の最後の頁を開いた。帳場の帳面ではない。俺だけの帳面だ。
そこに、紙の盤の書き方を、一つずつ書き留めた。縦にそろえる。一つずらす。何もない列には、横の線。
最後に、こう書いた。
盤を寝かせたのは、ヒロ。横の線を引いたのは、セルヴァン。
九段下りの者の名前を、書記の家の帳面に書くのは、変なことかもしれない。
でも、帳面は、記録のためのものだ。本当にあったことを書かなければ、帳面じゃない。
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